「永遠」を生きる旅人たち
~「本当の自分を見つける方法」より
友人にお芝居をやっている人がいる。町の小さな小劇場で演じている。その世界では有名だけど、役者だけでは食べていけない。しかし、「食べていけない」というのは、役者をやっていない人の視点である。なぜなら、彼らには芝居をすることが人生の意義だから。
芝居の中には集約された人生がある。役者はいくつもの人生を渡り歩く。疑似体験の人生にも、演じる役で「生き方」に深く共鳴する。
私たちの実際の人生も、実はお芝居のようなものである。個々の魂は、地上に受肉する前に、自分がどのような課題を持って降りていくか自ら決定する。課題とは、今ある偏見を取り除いていくことだ。偏見は愛の不足である。そして、人生の目的は、人によって表現方法は違うけれど、「愛」を表現することにほかならない。
そう、すべての人は、愛の表現をする役者である。ただし、お芝居と違うところは、役の設定と環境(生まれてくる国や人種、家庭環境)は本人が決められても、進行していくストーリーは本人の意思によってさまざまに変化することだ。最初にこんな人生を歩みたいと思っても、関わる人たちの意識(どんな人と関わるかも本人の選択なのだが)で、とんでもない方向に進んでしまうこともある。犯罪を犯してしまう人は、最初からそんな人生を設定していたわけではない。流されて、その道に入ってしまった悲しい魂。
なぜ、ストーリーは自由に変わるのか?それは、シナリオのある芝居と違って、魂の演じる芝居はすべての人が主人公であるからだ。脇役などは一人もいない。あなたに都合の良い役を引き受けている人などいないのだ。すべての人が自分の課題を遂行しようと務め、この人生でどんな形の「愛」を表現できるのかと期待して降りてくる。
そして、人生という芝居が終わったとき、自分の自作自演の生き方がどうだったのかを人生の最初から最後まで付き添っていた守護の霊団(実に何人もいらっしゃるのだ)の方たちとミーティングを行う。
多くの人が、人の運命は決まっているのでは?と思っている。運命は、人の意思と天の意思、そして、人々の集合無意識が作り出す時代や社会のエネルギーの総合関係で生まれる。それに、個人の過去生の因縁というカルマも絡む。
それらが複雑に絡まり合って一つの人生を創っていく。そんなシナリオの定まっていない「人生の荒海」に飛び込むのだから、皆さん大した役者さんである。それだけの潜在的な力量があるからトライできる。この世には、弱い人など一人もいない。
川柳に「人生は、二泊三日の夢の旅」とある。肉体を持つ身では実感しにくいが、霊的次元の視点からすれば、たかだか百年の生は一瞬かもしれない。「時間」という「意識的な幻想」のない世界から見ると、千年・二千年の単位もほんの数秒に感じられるらしい。私たちも肉体から離れると実感できるという。
私たちは、永遠を生きる旅人である。次の二泊三日の生を夢見て。