「人間」を超える夢

 ~『夢わたり』より~

「朝は四本足、昼は二本足、夜は三本足の生き物はなんだ?」

スフィンクスは、旅人に問いかけた。その両目の水晶の奥に、深い炎を宿して……。

答えは「人間」。生まれた時は四つん這い。成長して両足で歩くようになるが、年を取ると衰えて杖をつく。

「では人間の、人間たる由縁は?」

この問いに、私たちは答えることができるだろうか?

70年代のベトナム戦争の時、サイゴンでこんな寓話が流行っていた。『サソリとカエル』のお話である。

あるとき、川を渡ろうとしていた1匹のサソリがいた。

そこへカエルが泳いできた。

サソリはカエルに声をかけた。

「カエルさん、ボクを向こう岸に渡してくれないかい」

だが、カエルは首を振った。

「いやだよ。だって、君は毒のある尻尾で、ボクを刺すじゃない」

サソリは笑って答えた。

「そんなことをするものか!もしそんなことをしたら、ボクも溺れて死んでしまうじゃないか」

「それもそうだな。よし、いいよ。サソリ君、背中に乗りたまえ」

そして、カエルはサソリを乗せて川を渡り始めた。

ところが、川の中程まで来たとき、サソリはその毒の尻尾でカエルを刺した。

毒に苦しみながら、カエルは言った。

「……どうして……」

サソリも溺れながら言った。

「ボクはサソリだもの……」

ロンドンの国立動物園には、動物の入っていないおりが1つある。その中に、一枚の鏡が飾られている。檻の名札には「地上で最も凶暴な生き物」とある。

凶暴な生き物ーーー人間の歴史は、「戦争」の歴史だと、歴史学者は言う。

国と国、民族と民族、宗教と宗教、人種と人種、時には、同族同士、兄弟同士で相争ってきた。いくつもの文明や国が興り、滅びて、多くの血が流された。

なぜ人間は、そんなに凶暴なのか?どうして憎しみ、争うのか?

NASAの天文学者だったカール・セーガンは、著書『エデンの恐竜』(秀潤社)の中で、人間の獣性は「ワニの脳」のためだと言う。かつて進化の段階で、ハ虫類だったころの記憶が大脳の一部に残っているために、闘争本能が消えないのだと。

人間を、肉体を超えた意識体としても、その「進化」の過程を研究してきたドイツ人の人智学者の提唱者、ルドルフ・シュタイナーは、物質的欲望(富、物、所有)を刺激する「アーリマン」と、精神的欲望(地位、名声、自我)を刺激する「ルシファー」の二つの「悪」の因子が、「闇」によって人類の誕生時に組み込まれている、と指摘した。そのために、人間は「欲望」や「恐れ」のエネルギーに取り憑かれやすいと。

だが人間の中にも、「無償の愛」を教え、実行してきた人たちがいる。イエス・キリスト、マハトマ・ガンジー、ヘレン・ケラー、マザー・テレサ………、そして、名もない多くの人が、時には自分を犠牲にしてまでも、他人を救ってきた。

憎しみに苦しんでいる時でも、人の深い悲しみや大きな愛に触れたとき、人間は全ての人を許そうとする。自分の非を「反省」することもできる。

人間はきっと、人間を超えることができる。そう信じたい。人間は、哀しい性や宿命的なものを超えて、進化することができるのだと。そのために、多くの「聖人」と呼ばれる人たちは、道を示して見せたのにちがいない。「人は次の段階に行けるよ」と。

人類が月に行くことができたのも、宇宙がその可能性を示してくれた証明だという。航空宇宙学が発達したから行けたのではなく、宇宙に憧れる純粋な想いの魂に感応して、宇宙がその技術を人間の脳に降ろしてくれたのである。

だが今のままでは、まだ宇宙に出ていけない。地球の歴史を、宇宙で繰り返させないために。人類が互いに人種や文化、宗教などの「偏見」や「恐れ」を克服し、あらゆる戦争を解決し、自ら愛のために生きようと決意するまで。そして、地球のどこからも戦火が消え、互いに憎しみよりは愛を選択し始めたとき、宇宙は大いなる印しを示すだろう。

そのとき、人は初めて、スフィンクスに答えられるかもしれない。