ああ、クローンな人生 「この世でたった一人のあなたのために…… 」

~開運・しあわせお招き本舗より~

中国に行ったとき、ある公園で人だかりに出くわした。なんだろうと思った。全員が空を見上げているのである。ぼくは、空を見ている一人に筆談でこう聞いた。

『空、何在?』中国では英語か筆談に限る。

チョビ髭を生やした中国のチャップリンのようなその男は、肩をすくませた。「知らない」という万国共通のポーズだった。ぼくは隣の男にも聞いてみた。だが、やはり知らないらしい。その隣の女性も同じだった。

”では、なぜ空を見上げているんだ?”と疑問はますます深まるばかり。UFOでも見えるのならわかるが、上を向いている人は自分でもわからないまま空を見ているのだ。

ぼくはたまりかねて、その群衆の中心にいる中国服の男に聞いてみた。男は上を向きすぎて鼻時でも出たのか、鼻の穴にティッシュを詰めていた。ぼくの質問に男はこう答えた。

「わからないヨ。鼻血が出たので上を向いていたら、みんな集まって来て上を見ている。空に何かあるのかい?」

思考をマヒさせる、集団というフィールド

人は個人だと判断力もあり、物事に深い洞察を働かせたりできるが、集団の中の一員となると思考力が半減してしまうらしい。

以前、テレビコマーシャルに、一人の男が橋の上に立ち止まって下の川(画面には見えない)をみるシーンがあった。その男が橋の下をのぞいていると、他の通行人たちがつぎつぎに寄ってきて同じように橋の下を見はじめる。やがて口々に何かを叫びはじめた。テレビを見ている方はなんだろうと気になったとき、こんなコピーが流れた。

「この続きは、〇〇新聞でどうぞ!」

集団心理をついた広告だった。

私たちは知らず知らずのうちに、集団の思考をしてしまう。たとえば、ある小説家が芥川賞をとると、その人や内容に興味がなくても、その本を買ってしまったりする。動機は”権威が認めたものを自分も知りたい”とか、”世の中に遅れたくない!”である。とくに後者は多い。

「格子戸の象」のたとえがある。数人の僧侶が目隠しをして、格子戸の隙間から象をさわる。

だが、象の鼻を触る者、尻尾を触る者、胴体を触る者、足を触る者の感想と想像はみな違う。みんなはそれぞれの報告を聞くうちにますます混乱し、推理できなくなっていく。

これが集団思考のメカニズムである。

像とは、物事をとらえる視点である。人は、それそれの視点や受け取り方が違うのだから、そのまま尊重すれば良いものを、なまじ合わせて統一しようとするから、本当の姿が遠ざかるのだ。

それは、人と違うことを「恐る」心の生み出した幻想である。子供の「イジメ」も自分たちと「違う」ものを排撃しようとする心の表れだったりする。

人と違うことは、本当は素晴らしいことなのだ。個性や考え方がみんな同じなら、人の数はこんなにもいらない。人の数だけ、可能性や世界が開けなければ、地球は息が詰まってしまう。

人はみな少しずつ「違う」ということを知り、お互いを認め合い、自分の偏見を克服していく。本来はそのための集団である。それが、集団でみんな一緒に1つの行動と思考を……となるから心の中に葛藤が生じ、電気のヒューズが飛ぶように、思考のスイッチをみずから切ってしまうのだ。ファシズムはそういう心の隙間から生まれてくる。

戦争が良くないことは誰でも知っている。暴力が何も解決しないこともよくわかっているのだ。なのに、人はなんども同じ過ちを繰り返してきた。

だが、「人と違う」というとき、人は同じ違うのなら「人より優れている」違いを求めたがる。しかし、その「優れている」というのは、何をもっての比較なのか?

この世で一人として同じ人はいないのだから、比較のしようがないのに。

どこかに同じ共通の部分を持っていたいと思うから、表面的な比較にこだわるのだ。同じ優れるなら、誰かよりもというのではなく、以前の自分より優れた存在を目指したい。

世界中で、あなたはただ一人である。六十億の人がいても、あなたはたった一人なのだ。それは素晴らしいことではないか。その素晴らしいあなたが、やはり世界でたった一人しかいない人と愛し合ったり、憎しみあったりしているのだ。

あなたなら、どちらを選ぶだろう。

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幸福屋から一言。

激安バーゲンで買った服を初めて着た日に、自分の嫌いなアイツが同じ物を着てきたとき、人と同じというのがどんなにイヤなことか想像がつくだろうか?