風の言葉 – 75

愛の惑星……

……ある南の島に靴売りのセールスマンが二人訪れた。
白い砂浜に珊瑚礁、エメラルドグリーンの海が広がるまるで楽園のような所だった。
島の住人達も穏やかで、……しかし、その島では誰も靴など履いていなかった。

一人のセールスマンは、本社に電話してこう報告した。
「ダメです!この島の住人は誰も靴を履いていません。これでは、ビジネスになりません」と。
ところが、もう一人のセールスマンはこう言ったのである。
「この島は、ビジネスチャンスの宝庫です! 誰も靴を持っていません。見たこともないそうです。売りまくってみせますよ!」と。
「需要と供給」をテーマにした、有名なマーケティング理論の寓話である。
需要が無ければ作れば良いのだ、と。いわゆる視点の移動。ビジネスを成功させる為の発想の転換をと促す論理である。「儲けるためには」普通に考えていてはダメだと、それで資本主義は大きくなった。
今も大学のマーケティングの講義や広告代理店のセオリーとして通用しているたとえ話。誰もが、その発想の転換を疑わない。しかし……、と思う。
それで、この世界は「幸せ」になったのだろうか?
貧富の格差社会が生まれ、「もっと、もっと」という自我のみが肥大しただけではないのか?

確かに、需要が無ければ供給は成り立たない。だから、何も無いところに需要を生み出す論理はビジネスの世界では魅力的に映る。
だが、それは旧世界の四次元の発想である。
もし五次元の発想で思考するならば……。

例えば、その島が火山島で所々溶岩の岩が隆起していて、島民が裸足で歩くと足の裏を傷つける恐れがあるとしたらどうだろう?
だが、島の誰も靴を見たことが無いので、どうしたらいいのかわからない。そこにセールスマンが「足を保護するために」という視点で靴を提供したら?
そこにビジネスは成り立つ。同じ事ではないか? そう思われるだろうか?
前者は、自分と自分の利益を中心に考えて、靴をセールスする。
後者は、まず相手が幸せになることを考えて、靴をセールスする。
そこに「愛」があるかどうか? 同じ需要を作るのでも、相手の幸せを願って作るのとでは、訪れる結果が少しずつ違ってくるのだ。
なぜなら、そこには自分の価値観(エゴ)を押しつけない、という姿勢があるからだ。

かつて、キリスト教の宣教師がアフリカや南米の原住民達に「自分たちがいかに貧しく、不潔であるか」を説いたために、それまで幸せに暮らしていた生活を捨てて、かえって「他人との比較」という不幸を背負ってしまった話を思い出す。

20世紀は「欲望の世紀」と言われた。たった100年の間に地球の自然環境が大きく破壊された世紀だった。自分さえ良ければ、と他者を蹴落として幸せを求めた。けれど、そこに幸せは無かったことに今では誰もが気づいている。気づいてはいても、方法が見つかっていない。
かつてマザーテレサはこう言った。「何を為したかではなく、愛を込めて行ったかどうか」と。昭和の初めにリヤカーでビジネスを行っていたブリジストンの創始者・石橋さんは、建設現場の職人達が足を滑らせる危険から守られるようにと地下足袋の裏に滑り止めのゴムを貼り付けた。

全てが「愛」を中心にして動き出す世界。宇宙の螺旋は「愛」であるから、そこに人類が組み込まれて進化する為には、「愛」を目的とした社会や国、ビジネスを生んでいかなければならない。
欲望の需要を生んで満たすのではなく、何が幸せに繋がるのか? それを求めてビジネスを考えていく、そんな五次元のマーケティングの講義を教えたいと思うが、学びたい人はいるのだろうか? 


2013年12月27日 

……今年もあっという間に師走になった。
年々、一年が短くなる。子どもの頃はあれほど一年間が長かったのに。
誰もが年を取る。問題は、どう取っていくかだ。
意識は全てに先行する。
さあ、来年はどうか?