風の言葉 – 72

……無意識の意識……
夜、山の中で旅人が火の前に座っていると、妖かしがやってきた。
妖かしの名は「サトリ」。心を読むという妖怪だった。
旅人は『変な奴が来たな』と思った。
するとサトリは、「おまえ、今、オレのことを変な奴だと思ったろう」と心を言い当てた。
旅人は『……ははあ、噂に聞いたサトリだな』と用心した。
サトリは「そうだよ。サトリだよ」と答えた。
サトリは、人の心の中の「声」を次々に言い当てて、恐怖でカラになった心を食うのだという。
旅人は何も考えまいとした。
サトリは「おまえ、今、何も考えないようにと“考えた”だろう」と言った。
旅人は怖くなったがどうすることも出来なかった。
その時、火の中に偶然入っていた栗が炎に焼かれて弾け飛び、サトリの目に当たった。
「ギャッ!」
突然の“攻撃”にサトリは悲鳴を上げ、「人間は思ってもいないことをする」と驚いて逃げていった。
……私たちは、日頃どのくらい意識的に思考し、行動しているのだろう?
例えば、家の玄関を出るとき、たいがいの人は無意識に足を出す。
「昨日は左足からだったが、よし、今日は右足から出てやろう」とは考えない。
朝起きたときから夜眠るまでに、人が無意識で選んでいる行動は結構多いに違いない。
それは、その人の行動パターンが形成されている、ということである。
無意識の行動のパターンは思考形態に影響を受けている。
その人の思考の癖が行動パターンを決めていくのだ。
例えば、電車に乗ったら、端に座るのか真ん中に座るのか? だいたい決めているだろう。
人が新たに思考する時は、無意識の行動パターンにイレギュラーが発生するときだ。
端も真ん中の席も空いていない時である。
平安時代、陰陽師は「その辻を曲がると鬼に会う」からと、“方違え”を教えた。通る路を変えろ、と。
それは、いつもの行動ではない行動を取れ、ということだった。
いつも玄関を左足から出ているなら、今日は右足から、と。
最初の一歩が変われば、次の一歩も当然違う。
これを二つの道と喩えてみると解りやすい。
いつも通っている道(行動パターン、思考形態)をやめて、別の道を選択する。
最初の一歩は、ほんの小さな一歩だが、その道は別の所に自分を導いてくれる。
昨日は今日の“原因”、今日は明日の“原因”である。
いつもの道は、昨日と今日を等質に繋ぐ。けれど、違った道は“いつもの今日”から明日を切り離す。
「変わる」とはそういうことだ。
つまり違ってしまう、ということなのだ。
……人間は無意識に“意識”している。
人の成功や喜びを無意識の中で「妬む」。
人の苦しみや不幸を無意識で「喜んだ」りする。
それは、何処かで自分が辛いからだ。満たされていないからだ。
……けれど、その無意識の“選択”が自分自身に「負の連鎖」を生じさせる。
「人を呪わば穴二つ」とはよくいったものだ。
もし、人の幸福を「自分のこと」のように喜び、人の悲しみを同じく自分のことのように悲しめるなら、世界は違っているだろうと思う。
解決策は、自分はどう在りたいのか? だと思う。
自分の感情を眺める癖をつけ、無意識の意識に気づくように努めることだ。
無意識の「意識」に気づいたら、注意して観察してみる。
自分は「何故、そうなのか?」と。そして、「どうしたいのか?」と自らに問う。
怒りの感情を、嫉妬の感情を変えたければ、何処を変えれば良いのかと思考し続ける。
そして、パターン化した思考形態を変えようと“意識する”。
いわば、意識の方違えである。
そのうち、必ず変化が訪れる。
2012年12月29日 晴れ時々曇り
ずっと更新していないと、なかなか書けなくなる。
そうするとますます負担になる。
道を変えようかな。