風の言葉 – 63

孤独を味方につければ怖いものは何もない

……聖フランシスコ(アッシジのフランチェスコ)の「平和の祈り」にこんな言葉がある。
「理解されることよりも、理解することを、愛されることよりも、愛することを望ませてください」

多くの人は「人にわかってもらいたい」「理解されたい」「愛されたい」と望んでいる。
それを決して悪いことだとは言わないし、また思わないけれど、それは、結構困難な道のように感じている。
なぜなら、人は良くも悪くも相手を誤解しているからだ。
正確に言えば、人は「自分の見たいようにしか相手を見ない」からだ。
だから、人から褒められても、けなされても、それは大なり小なり誤解なのだと理解した方がいい。
理由は、自分自身が人をどう見ているかを振り返ればわかる。
公正か? と問われれば、何が公正なのかがまずわからない。要は自分がその人を好きか嫌いかだけで、あとの多くを判断してしまっている。結局は、自分はその人のことを何ひとつ知らなかったりする。
「フィーリング」とか「波長が合う」とは最近聞かなくなった言葉だが、確かに、「なんとなく」わかり合えるような気がする相手は存在する。
しかし、相手もそう思っているとは限らない。恋愛なら美しい誤解が入っているし、ビジネスだと「何かの思惑」が混じっているかもしれない。

さて、一般に人は「孤独」を恐れるよね。その恐れ方はほとんどステロタイプで「独りぼっち」「誰にもわかってもらえない」という形を恐れる。
本当の孤独はもっと厳しく、神聖なもので、世間の言う「寂しい」孤独とは絶対的に違うのだけれど、一般に「人に理解されたい」「愛されたい」と求めているかぎり、「独りの楽しさ」を理解するのも難しいように思う。

まるで世の中は、メンタルな部分でもGive and Takeの図式で、「愛してる」から「愛されたい」、「理解する努力をする」から「私も理解して欲しい」と求める人がほとんど。
聖フランシスコの祈りが後世まで残るのも、人々が「相手からどう思われてもかまわない。私は愛しているから」とか、「わかってもらいたいとは思わない。私が理解しようとするから」とは思えないから。
ただし、現在は、「相手が自分をどう思っていても、自分が好きだから」は、ストーカーと誤解される恐れがあるけれど(笑い)。 

聖フランシスコの祈りは、続く。
「人は自分を捨ててこそ、それを受け、自分を忘れてこそ、自分を見いだし……」
人は、手放して初めて得る、と云うのだが……。
僕はさらに思う。得られようと得られまいとどうでもよくなるのが一番いいんじゃない?と。
そう思えれば、人はどれほど解放されるだろう。人から、そして、自分自身から。

宗教家や理想主義者や精神世界の好きな人達は、「いつか互いにわかり合える日が来る」と夢見ている。だから、いつまでも実現しないのさ。
……相手を理解しようとしても、それが相手の本質かどうかはわからないでしょ。相手が自分に見せている部分は、所詮はほんの一部にすぎないのだから。
では、「愛すること」も幻想なの?
いいえ ! 愛するとは、相手の中に隠れている魂(神性・仏性?)を拝み出すようなもの。
相手がどう見えようと、ただ無条件で愛すること。
それが、無償の愛であり、それを果たそうとする時、人に必ず訪れるものを「孤独」と言うんだよ。

2010年 12月31日
ああ、行く年、来る年が近づいてきたよ。
来年、どんな年になるのか? ではなく、どんな年にするのか?
「どうなる?」ではなく、「どうする?」を自分が求めますように。
どうか良いお年を!