風の言葉 – 50

私は何者でもありません、でも私です!

……たとえば、あなたは自分自身が誰だか知っていますか?
「そんなこと当たり前じゃない」という声が聞こえてきそうですが、では、本当に自分が誰だか、どういう人間であるかを正しく知っているのでしょうか?

少なくとも、私は知りません。
自分がどういう人間なのか、わかっているような気もしますが、いざ考えてみると、途端にわからなくなります。

誰にでも友人の一人や二人、肉親だっているでしょう。
その人たちに見せている「私」は、きっとそれぞれに違います。

友人が三人いたら、彼らの知っている私は、きっと皆どこか似ていて、違うのでしょう。
全部を合わせてみても、やっぱり私自身かと問われると違うように思うのです。

人は、人に対して「合わせたり」、「演出したり」している自分がいます。
いわゆる「自分を演じている」のです。
時には、人の目を気にしたり、相手の期待に応えてみたり。時には、自分自身を変えてみたくて。

ほら、「親の顔色をうかがう」って、子どもの時にしませんでしたか?
子どもだって、ただ純粋なのではなく、親の想いを敏感にキャッチして、その時々で、自分を変えたりしていますから。

そうしているうちに、皆、自分がわからなくなるのです。
そして、「本当の自分」を見つけたいと切実に思うのですが、
はて? 本当の自分って、どういうものでしたっけ?

ねっ、わからなくなるでしょう。

……最近、私はね、こう思うのです。

私は、あなたが知っている私ではありません。
私自身が知っている、私でもありません。
私は、何者でもなく、誰でもない、けれど、まぎれもなく私なのです。
誰でもない私、それが私です!

就職面接でこれを言うと、きっと不採用になるでしょうね。合コンでも、「変なヤツ」と敬遠されること請け合いです。
でもね、今まで、あなたがしてきた自己紹介は、作られたものですよね。
自分の演出や周囲の人間の反応を参考にして。

それは、わかりやすいけれど、すでに自己限定していますよね。
つまり、「私はこういう人間です」ということは、「私はそれ以外の人間ではありません」と言っているのと同じ事ですから。

それが、無意識に自分を縛っていくのです。
そうして、自分で自分を苦しめてしまう。
いつも、何処にいても、独りでいてさえも、“演技”している自分がいる。
それって、苦しいんじゃない。

だから、自分を“壊したくなる”んでしょうね。
哀しいじゃないですか。いや、哀しすぎます。
自分自身を知らずに、なのに自分で苦しんでいるなんて。


……今日から、誰でもない自分になりませんか?
私は、何者でもないです、と堂々と言いましょう。
そしてね、「でも、私は、私です」と言い切るのです。

人がどう捉えようと、どう思おうと平気、関係ありません。
自分自身を何にも限定しない、捕らえもしないし、囚われもしない。

それでも、私は、ここにいるんだ! そう宣言しましょう。

最初は、自分も周囲も戸惑うでしょうが、気にすることありません。きっとラクになっていきますから。


2009年5月25日 晴れ。
映画『天使と悪魔』を観てきました。
前作『ダヴィンチ・コード』の続編という設定なんだけど、前作のようなキリスト教の暗部や隠された真実を探していくようなスリルやロマンは感じませんでした。
宣伝文句でうたっているほどのガリレオとの因縁も無かったし、普通のサスペンスものって感じがしました。
けれど、二作を通じて、「宗教」というものの本質、組織や権威というものを非難している感じはよく出ていました。
でも、一番驚いたのは、全世界にキリスト教徒が10億人もいるということかな。そんなにいたんだ……。
かつては、迫害を受けた新興宗教だったのですが。

……ずっと前から、宗教というフィールドの怖さを感じてきましたが、今の多くの宗教は、「本当の信仰」とはかけ離れているように思います。
たとえば、キリスト教の聖職者でない者に神が宿っても、誰も認めないのでしょうね。それどころか、悪魔のように迫害するのかもしれません。
ユダヤ教徒がイエス様を迫害したように。

タイトルの「天使と悪魔」、微妙だけど的確ですね。「神と悪魔」ではないところがいいですね。天使も悪魔も共に人間の変化したものですから。神は人からは成れません(神話や伝説に登場する神は、元は人間ですから)。……でも、神が人になることはあるのでしょうか。