風の言葉 – 38

自由という名の「不自由」

忙しいときに、いろんなやりたいことが浮かぶ、そんなことってない?
 「ああ、今度ヒマができたら、あれをしよう」と、強く思う。
 けれど、実際にヒマになったら、あれほどやりたいと思っていたことが大してやりたくなくなっていたりする。

 そう、僕は、熱しやすく冷めやすいから! って、ちょっと違うか……。

 人は、自分で自分を縛る。一人SMかい!って、これ前にやったよね!
 環境に、職場に、人間関係に。
 そして、その中で、違う人生を歩んでいる、もう一人の自分を夢想していたりする。

 今は、こうしている自分がいるけれど、本当は、こういうことがやりたいのです! と、時には、誰かに涙ながらに訴えたりする。
 聞いた人は、「そうか、それほどやりたいのか! いつか、そうなるといいね」と夢を持つ人への応援を惜しみなく送ってくれる。

 けれど……、いざ、その人が「自由」になり、なんでも自分の思い通りの事ができる状態になると、あれほど恋こがれていた自分のやりたかった事に飛びつかなかったりする。

 周りの人は、当然、疑問に思う。
 「あの人は、自分のやりたい事があったのじゃあ、なかろうか?」とアフロの田中君のように分析したりするかもしれない。

 一年、二年の月日が経っていく。しかし、待てど暮らせど、その人は一向に自分の進みたかった道には行かない。
 準備が足りないのか? それとも、あきらめたのだろうか?
 次第に、周囲の人間は、その人がかつて語っていた夢の事を忘れてしまう。
 そして、こう思ったりもする。
 「もう、その気がなくなったのかもね」
 それを聞いた人は、こうも言うかもしれない。
 「そうかも。だって、本当に自分のしたい事がある人は、なんとか時間を作ってでもやろうとするでしょ。どんなに忙しい人だって、一ヶ月に一日や二日は休めるじゃない。今なら、インターネットもある。調べたり、準備する時間は作ろうと思えば作れるもの。だから、きっと本当にはしたくなかったんじゃないかなあ?」
 無慈悲にも思える言葉。かつては応援したこともある人が言っちゃう。

 ……そうかもしれないし、そうでないかもしれない。
 本当の事は、誰にもわからない。
 そう、本人にさえもね……。
  

 人間は、自分で自分の事が一番わからない。
 自分の欲しているもの、やりたかった事、それが、何なのか? 自分ではしっかりと持っていると思っている人でも、いざ、「できる自由」が手に入ったら、途端に尻込みしてしまうことはよくある。
 残酷な言い方だけど、その人は、自分がその夢に向かっている、という「夢」を見ていたのだろうと思う。
 恋に恋する乙女のように。

 もちろん、それは責められるべきものじゃない。
 誰にも、自分自身でもね。

 けれど、考えることは必要だと思う。
 自分が何かで束縛されていた時に、求めていた「自由」とは、本当は何だったのか? と。
 どうして、それを求め続けたのだろうか?
 そして、そこにはどういう「意味」があったのだろう? と。

 答えは見つからないかもしれない。でも、「答え」を求める行為の中に、自分が夢想して費やしてきた時間の中に、自分自身の「カケラ」、今の自分ではない、もう一人の自分が求めていたものが見えてくるかもしれない。
 自分が「不自由」の中で夢見た「自由」に、どんな「意味」があるのかは、自由になった今でないと発見、あるいは理解できないかもしれないからね。

 それで、何の意味があるのかって?

 ならば、問いたいよ。
 あなたは、何のために生まれてきたのか?

 自分が何を為せば、自分自身を“許せる”のだろうね?

 人が求めるものは、具体的な形あるものとは限らないでしょ。
 その人が、自分の中に構築したい何かが、ある具体的な職業や趣味等を通じて得られることもある。また、求めて「きっかけ」になったものの中に本当のヒントが隠されている時もある。

 人生をどう生きるのか? は、誰にも与えられた自由な権利なのだと思う。

 では、もう一つ。
 ねえ、本当の自由って何だろうね?

 

2008年11月26日 今日は朝から晴れていたよ。洗濯モノが良く乾きます。今、モカマタリの美味しいコーヒーを飲んで、これを書いています。
知っていました? 「モカ」って、中近東イエメンのモカの港から出港したものだけが言えるものなんだって。