風の言葉 – 36

本当の自分を見つけたいっポ!

自分探しの旅って何だろう?

ねえ、いろんな本やワークショップとかで、「自分探し」は今もウツウツと続いているよね。
学びに来る人も、教えている人も、合言葉のように「本当の自分を見つけましょう」と、呪文のように唱えている。
……それって、おかしいと思う。
 
僕は、ずっとリアルに「結果」と「原因」を求めてきたから、どこかのセミナーのセンセイが言うみたいな「探し続ける姿勢が大切なんですよ」には、納得できない。「幸せの青い鳥」のように、探すだけムダだし、答えが見つからなくなって「迷宮」に迷い込んでしまう。

たいてい、「自分探しの旅」って、今の自分の“否定”から始まるでしょう。「今の自分は本当の自分じゃあない」みたいな。
「まだ見ぬ明日の自分!」って言葉も魅力的に聞こえるよ。けれど、それって、「幻想」を追いかけているんだと思うよ。
だから、今まで誰も「本当の自分」に出逢えなかったんじゃない?

確かに、「今の自分」に満足している人って少ないと思う。
今の自分がキライだったり、なんとか良くしたい、変えたい、と願う人は多いね。ここにいる自分ではなく、本当の自分になれれば現状は打破できる、と信じている、あるいは、信じたい、と。
方法は、瞑想やヨガ、内観、自分との対話……、昔から、多くの人が試してきたけれど。
で、結局、誰か見つけられたの? 本当の自分を。まるで「不老不死の薬」だね。

……人間は過去から未来まで、「無いもの」を求め続ける。それが、自我の執着によるもので、人間を不幸にしていく閉じられた輪だということに、いつになったら気づくのだろう……?


人は、多面体の結晶のように、幾つもの顔を持っている。
Aさんに見せている顔、Bさんと接するときの顔、Cさんに良く思われたい顔……と、それぞれに違う。
それらのどの自分が「本当の自分」なのだろう?
きっと、どれも本当に見えて、どれも本当じゃないように思える。
自分でも、自分の事なんてわからないから。

人は、結局、他人の事も自分の事も「正しく」見ているわけじゃない。
どこかで、自分の都合の良いように相手を見て、その相手と接している。
だから、相手の知らない処があるのは当たり前。
好きな相手にだって、自分の知らない顔は幾つもある。どこまでいっても知り尽くせはしない。
 
それを寂しく思う前に、では、自分はどうなのだろう?
自分が人や社会に見せている顔は、どこまで“自分らしい”のだろうか?

きっと、考えれば考えるほど、わからなくなるよ。

……だから、「本当の自分」なんて存在しないんだ。
もし、これがそうかと思っても、見つかった途端に本当じゃなくなる。

僕が、「幻想」って言った意味……わかるでしょ。


人の中にはいろんな「自分」がいる。そのすべてが「ニセモノの自分」であり、同時に、「本当の自分」なんだ。
今の自分が、ニセモノであり、ホンモノでもある。
一部が全部であり、全部が一部とも言える。

“確かな自分”、“本当の自分”、“らしい自分”……、みーんな言葉遊びなんだよ。
今までの自分をニセモノだと否定するから、自分がどこにも居なくて、見つからなくて苦しむんだ。
今までの自分がしてきた事、体験してきた事、それが楽しい記憶であれ、悲しい記憶であれ、全部、自分自身の大切な「宝物」のような記憶なのに……。
……そして、同時に、いつ無くしてもいい「過去の遺物」なんだよ。

なぜなら、あなたは「今を生きている」のだから。
明日、幸せに成るのではなく、今日、幸せにならないと、人間は何度も死んできた意味がない。生まれてきた意味もない。

今の自分を否定しようとも、好きになれなくても、その否定している自分もキラッている自分も、すべてがニセモノなんだから。そして、ホンモノなんだから。
それが、今の自分の「現実」、リアルなんだよ。

そこから逃げることは出来ないし、逃げる意味もない。

「そうか……、過去も未来もなかったんだ……。探すべき自分も、探している自分も本当は居なかったんだ……」
そう決意して、今日、新しい自分が生まれれば、明日はもう変わっている。
昨日と決別した今日だから。

今日、変わった自分……。
それが、本当の自分かどうかなんて、もう何の意味もないことでしょ。



2008年10月22日 京都のボディライトニングのスクーリングの当日(10月18日)に、新大阪の駅で階段から落ちて、右足を何カ所か複雑骨折してしまいました。その日はあまり歩けませんでしたが、次の日、スタコラと歩いていきました。もちろん、松葉杖もギブスもなしでね。うーん、今回は、ちょっと時間がかかってしまったぜ。まだ後遺症があって、正座ができません、トホホホですゥ。