風の言葉 – 32

七夕まつり
牽牛と織姫の恋。
……一年に一度だけ許された逢瀬。
もし、そんなふうにしか逢えないのなら、私ならどんなふうに出逢いたいのだろう?
もちろん、「一期一会」のつもりで、というのは基本だろうけど。
あんなことも話したい、こんな事も一緒にしたい……そう思いながら、想いだけが空回りして、結局は、出逢った瞬間に何も出来なくなっているのではないか。
そんなふうに思う。
そして、後で「しまった! あれも話せば良かった。これもしておけば良かった」と後悔するのだろうか?
それとも、「うん、これで良かったのだ」と思うような気もする。
……出逢いの数だけ、別れがある。
そして、別れがあるからこそ、次の出逢いがある。
明日がダメなら、あさってがあるさ、明後日がダメなら、しあさってがあるさ、どこまで行っても明日がある、と同じ?(いや、それは違うだろ)
けれど、その出逢いが、本当に宇宙開びゃく以来(ちょっと大袈裟かな?)の大切な出逢いだとしたら……、それでも、別れがあるから次がある、と言えてしまうのだろうか?
……牽牛と織姫に、代わりはきっといない。
だからこそ、一年に一度の逢瀬を続けられたのではないか?
人にはきっと、誰にでもそんな「半身」がいるのにちがいない。
だけど、ほとんどの人は「半身」に出逢えないまま、一生を別な人と過ごすか、あるいは独りの片割れのまま過ごしていく。
それを悪いとは言わない。間違っているとも思えない。
たとえ、「半身」に出逢えたとしても、時期的にすでに、誰かと暮らしていることだってある。
そして、残念ながら、人は「その時」を選べない。
ときおり、ふと思う。
人生は、いつまでも完成されないジグゾーパズルのようだ、と。
いつも、肝心なピースが見つからない。
そして、見つかった時には、もう自分の時間の終わりが迫っていたりする。
人が、そんな意地悪にも思える「運命」を超えられるとしたら、それは、「一瞬という永遠」なのではないか。
その一瞬の中に、自分のすべての想いが凝縮されている。
その一瞬が、無上の喜びで満たされる。
……その時、人は初めて、「永遠」を手に入れるのだ。
人を好きになることは美しい。
人を好きで居続けることは、もっと美しい。
なぜなら、その人は、「永遠」を手に入れた人だから……。
2008年8月7日 仙台は珍しいくらい晴れた「七夕まつり」を迎えられたそうです。めでたし、めでたし。
ところで、女性は、自分から別れた相手にでも、いつまでも自分を良いように思っていて欲しいものらしい、です。
男性は、自分の事をどう思っているかよりも、自分が相手をまだどう思っているか? にこだわるのだと思う。
だから、男は女に勝てないのだろうなあ、やれやれ……。