風の言葉 – 31

遠い記憶


……人は、どうせ死んでいくのに、どうして生まれてくるのだろう。

2008年7月18日付けの読売新聞のネット配信記事に、作家・芥川龍之介が妻や子らにあてた遺書4通が東京都内の遺族宅から見つかったという記事が載っていた。昭和2年(1927年)7月に芥川龍之介の残した遺稿、『或旧友へ送る手記』には、自殺に関してこう記されている。
「……君は新聞の三面記事などに生活難とか、病苦とか、或は又精神的苦痛とか、いろいろの自殺の動機を発見するであらう。しかし僕の経験によれば、それは動機の全部ではない。のみならず大抵は動機に至る道程を示しているだけである。自殺者は大抵レニエ(アンリ・ド・レニエ フランスの詩人)の描いたやうに、何の為に自殺するかを知らないであらう。それは我々の行為するやうに複雑な動機を含んでゐる。が、少くとも僕の場合は唯ぼんやりした不安である。何か僕の将来に対する唯ぼんやりした不安である」(インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/) より)

また、作品『仙人』にも、次のような言葉がある。
「……何故、苦しくとも、生きて行かなければならないか。勿論、李は一度もそう云う問題を考えて見た事がない。が、その苦しみを、不当だとは、思っている。そうして、その苦しみを与えるものを――それが何だか、李にはわからないが――無意識ながら憎んでいる」


……昔、誰かが言った。
「人間は、必ず死ぬ。けれど、死ぬまでは生きていかなければならない」と。

そして、人生には多くの「苦しみ」と「悲しみ」と、ほんの少しの「喜び」が待っている。
「死ぬ」こと、あるいは、「自殺」を一度も考えなかった人間は、いないように思う。

それでも、死なずに済んできたのは、ほんの些細な出来事に出逢ったからだったりする。
親切な人に出逢えたから。感動するドラマを見たから。子犬や子猫に癒されたから。家族の顔が浮かんだから。好きな人の笑顔を見たから。夜、美しい月を見たから……。本当に、ちょっとした出来事が、その人の生死を分けたりする。

「どうして生きていかなければならないのか?」
その問いは、「我々はどこから来て、どこに行こうとしているのか?」という人類の存続の疑問に繋がっていくように思う。

……僕は、じつは確信たり得る、一つの答えを持っている。

人には、誰でも「生まれる前の記憶」が存在する。
もちろん、それをムリに信じる必要はない。信じても信じなくても、何も変わらない。

「生まれる前の記憶」、それは、一言に「前世」に留まらない。
自分がかつて、どこの誰だったかなんて、本当には知ったって仕方がない。
なぜなら、今は、そうではないのだから……。

ならば、生まれる前の記憶なぞ、関係がないのでは……? と、誰もが思う。
「それよりも大切な事は、今を大切に生きる-Carpe Diem(カーぺ・ディエム ラテン語)だろう」と。

それは、大旨、正しい。けれど、その「今を生きる」ことに飽いて、あるいは、疲れた人達がいるのだ。
「今を生きられる」なら、誰も自殺などしない。


……生まれる前の記憶とは、「幸福」だった記憶である。
幸せだった記憶、安心して、満ち足りていた記憶。
遠い、遠い遙かな記憶。

それが、あるから誰しもが「幸福」を求めるのだ。
……人間は、幸福な状態が自然体なのだ、という微(かす)かな記憶。

人間は、幸せだった頃の記憶があるから、誰もがそれを探し求める。
もし、その記憶が無かったのなら、求めようにも、何を求めて良いのかがわからない。
一度も食べたことのない果実の味は、求めることができないように。

……人間は、かつて、幸福の中にいた。
それは、「答え」にならないだろうか? 
生きていく価値たるを得ないだろうか?

最初から無いものならば、求めても徒労に終わる。しかし、かつてあったものなら、それを求めることは可能なのだ。
……だから、その幸福をもう一度求めて、彷徨っている。
そして、何度も「転生」を繰り返してきた。
何故、転生を繰り返すのか?
死んでも、その「幸福」が得られなかったからだ……。
生きていればこその幸福だから。 

その幸福に至る道が、「愛」だと思う。
愛とは、単純に「愛したり」、「愛されたり」することではない。
「理解すること」なのだと思う。

自分と違う者の事を理解する。世界に満ちている「悲しみ」や「憎しみ」の正体を理解しようと努めること。
それが、自らの「慈悲」の発動に繋がるのではないか?

なぜ、自分が苦しいときに……?
そう、自分が苦しいのは、自分にメッセージが向けられている証拠だから。
誰よりも、不幸の本質に気がつき、そこから脱出できる「答え」に近づいている証であるから。
ただし、そこに留まったままだったり、自己憐憫に陥らなければ、だけど。

自分なりの「答え」でいい。人類全体の命題などと大袈裟に構えなくていい。自分が苦しいのだから、自分の中に「答え」は必ず眠っている。
どうして、こんなに苦しいのか? どうすれば、この苦しみが癒されるのか? その為だったら、何でもする!
もし、「答え」を見つけられたら、それは、人々を真に解放する。
あなた一人が答えを得ることで、全体に拡がっていく。
人は、見えない処でじつは繋がり合っているから。すべての人に流れている血の持つ二つの歴史。血統と霊統による過去からの繋がりが、それを証明している。

遠い記憶の片鱗に再び触れた時、その時、人は、初めて自分を「許している」のだと思う。
「……そうか、生きていて、良かったのだ」と。


2008年7月21日  かつて、『宇宙船・地球号』という言葉があった。確かに、人間は、この惑星・地球に乗っかっている。いや、乗せてもらっている、と言うべきか。
なぜなら、人間は皆、無賃乗車であるから。そこで、ゴミゴミと生きている。……いつ、追い出されも仕方がないのかもしれない。
ところで、最近、気に入っているテレビCMがある。ハリウッドスターのトミー・リー・ジョーンズが宇宙人になっている例の缶コーヒー、ジョージアの新しいCM。舞台は、家の建築現場。ライトバンの荷台で、柱にノコギリを入れている宇宙人ジョーンズ。ふと見ると、若者が親方頭領に怒鳴られている。何か大きなミスを犯したのだろうか?「もう、おまえ、明日から来なくていいよ!」と、怒鳴る頭領、戸惑う若者、それを見ている宇宙人ジョージ。突然、ノコギリの音が奇妙な音に! その途端、柱が切れて、車まで切れてしまうのである。なんというバカ力か! 場面変わって、若者に缶コーヒーを持って見舞う宇宙人ジョーンズ。「叱られて、ちょっと嬉しかったす」と若者の告白。「この星の若者は複雑だ」と想う宇宙人ジョーンズ。タイトル・ナレーションが入って、『ろくでもない、この素晴らしき世界に』でエンド。うーん、いつ見てもキレがいい。って、切りすぎじゃん。明日から来なくていいのはお前だろ! と、ツッコミを入れたくなりました。
もう、梅雨は開けたかな……。