風の言葉 – 24

鬼に出逢わば、鬼を斬り、仏に出逢わば、仏を斬る!

……シトシトピッチャン、シトピッチャン、シートーピッチャン♪
今日も幼子、大五郎を仕込み刀の入った乳母車に乗せて、「子連れ狼」こと、拝一刀は、冥府魔道の荒野を行くのであった……

昔から、剣の道を極めるべく剣豪達は、己をギリギリの状態にまで追い込み、そこから活路を見いだしてきた。
なぜって?
そうしないと、すぐに自分が死んじゃうから、だろうね、きっと。
闘いでは、時に技術や才能よりも、精神力がその勝敗を決める。

禁欲、鍛錬、不動心、それらは常に死と隣り合わせの環境から生まれたんだと思う。
自分の心を鏡のように研ぎ澄ましていく。

それは、求道へと向かい、当然のように「道」が生まれた。
「Bushido 武士道」である。曰く「武士道は、死ぬことと見つけたり」。

まあ、いわゆる「死に方の美学」ね。“どう死ぬか”、は、“どう生きるか”でもあった。

私たちは、武士じゃあないけど、「どう生きるか?」を模索し続けているよね。
年齢を重ねていれば、どんなふうにこの地上を去りたいか? にも興味が湧く。
お家で、家族に看取られ、眠るように静かに逝くのが良いのか? 誰にも知られずに、雪山か氷河の中で朽ちるのが良いのか? それとも、「じゃあね」と元気に言って、光の粒子になって消えるのが「らしい」のか? ぼくは、最後のがいいなあ。「It’s Time !」ってね。

でも、人は「死ぬ」までは、どーにかこーにか生きていかなければならない。
だから、テーマは「どう生きるか?」に戻ってくる。

そして、人生は「出逢い」がすべてだ。
人にも、モノにも、場所にも、時にも……、宇宙の中で、ご縁をいただいて出逢っている。

けれど、その「出逢い」は、常に自分に何かを レクチャーしてくれる。
例えば、あなたが出逢ってきた人は、どんな人達だったのだろう。

ある人は、自分の伴侶がアルコール中毒や暴力的な性癖があって、ずいぶんと苦しんできた。
「自分はなんて不幸なんだろう……」といつも嘆いていた。
けれども、ある時、ふと「もしかしたら、自分が相手から、そういう衝動を引き出しているのでは?」と考えた。
なぜなら、暴力的な伴侶は、自分以外の人には、普通に優しい人だったから。
……だとしたら、自分は相手から鬼を引き出した。被害者であると同時に、加害者だったのではないか、と。

また、別の人は、自分の中の闇が、同じような闇の人を引きつけていたことを悟った。
それはイヤだ! と思った。もう泣くのは、たくさんだ!
けれど、どうしたら、自分の中から光を輝かせれば良いのかがわからない。
仏のような人に逢えば、自ら光れるのか? 神のごとき人、あるいは、神そのものと出逢えれば、光へと変われるのか?

……答えは、常に内側にある。と言うか、内側にしかないよね。

たぶん、闇も光も、自分の中の「揺れる心」の象徴なのではないかな?
ロウソクの炎が揺れているのではない。自分の心が揺れているのでもない。
鬼も仏も、そして、“自分”さえも存在しないのだとしたら……。

恋人でも伴侶でも、友人でも、相手が変化していくことを望まない人は案外多い。
それは、自分が「変わりたくない」あるいは、「変われない」と思っているから。
そして、相手に対して思わず「執着」してしまう。
けれど、本当は、それは「自分自身に対して執着している姿」なんだ。
 
でも、変わらないものは、存在しない。
 
ならば、変わっていく自分だけが、ただ光輝く存在としての自分である。

多くの人が、未だ苦しんでしまうのは、
すでに「自分がとっくの昔に救われている」ことに気づくことができない“哀しさ”、かな。

慈悲とは、いまだ本当のことを知らされていない者の哀しみを知ること、なり……か。

 
2008年3月10日 近所の和菓子屋で「道明寺」を買ったよ。色が赤紫で、とってもキレイ。薄い桜色も上品で良いけれどね。それを日本酒でパクッと食べたよ。ああ、美味し、ニッポン! だね。