風の言葉 – 23

宇宙における「知的生命体」

……宇宙における「知的生命体の定義」って何だろう?
 
って、いきなり堅い話でごめんよ。
それは、つまり、何をもって、「知的生命体」であらしめるのか? という問いかけ。
少し前に、深夜に放映していた『UltrasevenX』の、とあるエピソードでは、「遙か宇宙の深淵を求める、あくなき探求心こそが知的生命としての根源ではないか?」というようなセリフがあったけど。
 
まあ、「探求心や冒険心」は、確かに「知的好奇心」の一つだと思うよ。
新大陸を発見したコロンブスだって、世界の果てを夢見た一人だったから。

だけど、「知的好奇心」は、時にその為の手段を選ばない事を選択させたりする。
「欲はダメだけど、“意欲”なら良い!」と大人が誤魔化すように、「知的好奇心」もすぐに自分の行動を“正当化”させたりするよね。
インカ帝国を滅ぼしたスペインの兵達は、「黄金」への知的好奇心がとても旺盛だったのではないかな。

……昔、「知的生命体の定義」とは、「自己犠牲の精神」だと教わったことがある。
けれど、自己犠牲は、たいてい悲惨なイメージがつきまとう。特にドラマや映画では、自分を犠牲にして多くの人の命を救う、という図式が強調されたりする。
かつてのイエス様が、人々の「罪」を一身に背負って、十字架にかかったように(だから本当は、もう人間は誰も罪がなくなったのに、人々に“罪人よ、罪人よ、悔い改めよ”と罪を再認識させてきたキリスト教のあり方に疑問を持つべきだと思うけどね。何のためにあの方が自分の身を犠牲にしたのかと考えるとやりきれなくなる)。
でも、これからは、誰も犠牲にならない世界が、本当のあり方のように思う(そのために、もう少しだけ混迷の時代は続くけれど……)。
誰かを救うために、誰かが犠牲になっていたら、誰も幸せではないもの……。

……きっと、人間が考える「知的生命の定義」って、“情的”に捉えたものなんだろうね。


僕は、ほんとーの「知的生命体」の定義とは、「愛の理解」と深く関わっているように感じている。
どれだけ、愛を理解し、体現できているかで、その人から放射されている“波動”のようなエネルギーに現れるのではないかしら。

わかりやすく言えば、「愛の実践」とは、「執着を手放していくこと」なんだと思う。

たとえば、誰かを愛する時、一般的には、その人の“存在”を求めるでしょう。
でも、それは、「自分の幸福の追求」の為であって、「相手の幸福のため」ではないよね。
結果的に、互いに求め合い、「幸福感」を得られるかもしれない。
でも、最初の動機は、「相手の幸福のために」ではないでしょう。

それは、「愛」ではなくて、「情」なんだと思う。

……時には、自分の「想い」をあきらめた方が、相手の「真の幸せ」に繋がることだってあるかもしれない。
そんなとき、自分自身を「手放す」ことができるかどうかが、「愛」なのだとしたら……。
その結果、“出逢い”が同時に“別れ”となるかもしれないけれど。

でも、すべての“出逢い”は、“別れ”を包含している、と言えるのじゃない。
人は出逢ったときから、ある意味で別れる準備を始めていくのだと。
 
それを「その出逢いがもたらすものの真の目的」を問う姿勢を持てるかどうかで、道は二つに分かれていくように思う。
「執着」と「進化」という道に。
 
 
2008年2月29日 ああ、もう二月が終わるね。三月から、「BLスクーリング」も始まるし、いろんなものも動き出すよ。
今日は、なんだか地球がとっても軽くなったような気がする。