風の言葉 – 22

自分の中に「神さま」を感じること以外、
恐怖から本当に逃れる術はない!ような気がする……
……誰かが言うのよ。
「この世界が不幸になったのは、人間の“所有欲”のせいだ!」って。
所有欲って、結局、詰まるところは、「失うのが怖い!」っていう“執着”でしょ。
それは、言葉を換えれば、「恐怖」?。
たしかに、戦争も犯罪も嫉妬やイジメも、すべては「恐怖」から生まれてくる。
人類が有史以来、「戦い」を繰り返し、止められないのは、「恐怖心」故なのだという。
と言うことは、未だに世界中に戦争や犯罪が起きているのは、「恐怖」が克服されていない証拠かも……。
じゃあ、“恐怖”って、どうすれば、克服できるんだろう?
よく「“愛”だけが、“恐れ”を克服できる」って言うよね。
でも、その「愛」がわからない、って言うか、とても難しい。
恋愛していたって、相手を失うことを恐れるでしょ。
家族の愛だって、病気になったらどうしよう? 事故にあったらどうしよう? と恐れたりする。
逆説的に言えば、誰かを好きになればなるほど、その人を失うことを恐れてしまう、よね。
では、「恐れに打ち勝つ“愛”」って、どこにあるんだろう。
テレビでは、「大切な人や家族を守るための“保険”」のコマーシャルが頻繁に流れている。
けれど、誰もが一つだけわかっている。
「この世で、確かなものなんて何もない!」って。
もし、あるとしたら、神さましかない……。
けれど、それがなかなか実感できない……。だから、苦しい。
人は説くよ。
「信仰心が足りないから……、不安になるんだ」って。
そうかもしれない。でも、何に対しての信仰心?
宗教は、信仰心そのものじゃない。むしろ、“依存”という「執着」を感じてしまうもの。
……あのね、目に見えない“神さま”を信じるのは、とても難しいよ。
そして、その神さまがどこにいるのか? どうしたら逢えるのか、……死んだら逢えるって言うけど、じゃあ、どうして、多くの魂は地上に彷徨ってるんだ? って思わない?
一つの答えだよ。
「自分の中に神さまを“感じる”」こと。
どんな時も、どんなことでも、「外」に求めていては、きっと叶わないのだと思う。
それが、いかに、外側からやって来るように見えても、本当は、自分の内側と呼応して現れるんだと言うことを、もしかしたら、人間はちゃんと知っているのかもしれない。
「自分の中に神さま」って言っても、「自分=神さま」とは言わない。そんなに楽観的になれないよ。
それほど単純なら、誰も不幸や悲しみを感じないだろうから。
たとえばさ、目を閉じて感じてみて。
「自分」って何だろう? って。
腕をさわってみて。それは、あなたの腕だけど、“あなたそのもの”じゃないよね。肉体の一部に過ぎないよね。
足を感じて。その足もあなたの足だけど、あなたそのものじゃないでしょ。
顔も頭も身体も、すべて、あなたのものだけど、「あなたそのもの」じゃない。それらのすべてが、「あなた」という存在そのものや、「気配」そのものじゃない。
でも、あなたはちゃんと「実在」している。
つまり、肉体でもない、形でもない、それでも、言葉では表現しきれない「あなた」が居る。
どこにも「あなた」が居なくなって、怖い? ……でも、居るよね。
それを感じられるなら、きっと、「神さま」も感じられる。
「自分の中に、どう否定してもしきれない、何か、こう温ったかいような、光のカケラのような、どこかに繋がっている細い糸のような、当たり前に呼吸をして心臓を動かしてくれている……なんとなく自分を護っている何かの気配、それを神と呼ぶなら、自分は確かに、それを“感じられる”」
それを不確か、と思うか、そこから、「確かな」道を見つけていけるか、それは、僕にはわからない。
けれど、「神さま」を自分の内側に感じようとするとき、探そうとするとき、人は、すでに「自分」を超える扉の前に立っている。
それは、自分自身と向き合う姿だから。
「恐怖」を冷静に見つめる姿勢だから。
そして、歩き出す。一歩を踏み出す。
そのとき、人は、「恐怖」を本当の意味で“克服”できるのだと思う。
2008年2月15日 いよいよ明日は、「東京のお話会」。また、誰と出会えるのだろう?
それも、一つの「新しい扉」のように思うよ。