風の言葉 – 08

「自分」に向かい合うとき……

「自分に正直に」って、よく言うけど、その時の自分って「どんな自分」なの? 教えて、テンプー!

老師「人がもっとも苦手なもの、なーんじゃ?」
弟子「あらー、いきなり謎掛けですか? 老師」

老師「うむ、今回は対話形式で迫ってみちゃおうかのー、と思っての」
弟子「どうりで。全身からフォースがみなぎっておられますぞ」
老師「フォースか、ちと、古いが、まあ、ええか。で、答えはわかったんかいの?」

弟子「うーん、人がもっとも苦手なものですか……、金髪美女と饅頭かな?」
老師「いきなりボケて、どうするんじゃ。バラモンもおらんのに」
弟子「てへっ」
老師「可愛い子ぶってもダメじゃ。さあ、よく考えるんじゃ。……そう。人のもっとも苦手なのは、自分と向かい合う事じゃよ」
弟子「あの、まだ何にも言ってませんが……」
老師「いや、料理番組と同じで、時間経過を同時に見せとるんじゃよ」
弟子「ああ、半日経ったお鍋です。というやつですね」
老師「うむ。では、自分と向かい合うとは、どういう意味か、答えてみい」
  
弟子、しばらく考えて……

弟子「自分が何を掴んでいるのか? という執着を観ることでございましょう」
老師「フオッフォッフォッ、フォオー、なかなか良くできた答えじゃ。確かに、多くの人は、何らかのフィールド、言い換えれば、“価値観”に捕らわれておる。人や社会を“観る目”で、結局は自分自身をも観てしまう。それによって、苦しんだり、自己嫌悪に陥ったり、まあ、忙しいこっちゃな」
弟子「老師ぃ! そんなバルタン星人みたいに笑って、言われましては、ミもフタもありませんよ。でも、なるほど、人は、自分で自分を縛っているのですね」
老師「うむ。それが、“執着”となる。しかしの、まだ奥がある。その縛っている自分、がんじがらめになって、身動きがとれない自分が、もしも、“幻想”なのだとしたら……?」

弟子、カミナリに打たれたように、衝撃を受ける。 

弟子「苦しんでいる自分が、本当の自分ではない、と……」
老師「うむ、たとえば、今の“自分”だと思っている人格なり、性格が、いつの頃から作られたのか、振り返ってみたことはあるじゃろか?」
弟子「と、言いますと? “自分”だと固く信じている存在も、また何かの価値観やフィールド上の作られた産物、という意味ですか?」
老師「そう、パースペクティブ(遠近法) に捉えずとも良い。要は、自分だと信じてきた“自分”もまた、何かへの執着から構成され、あるいは、変化してきたものじゃ、ということなんじゃよ。じゃから、自分と向き合う、とは、今の自分をまず“疑え”、ということなんじゃ」
弟子「あっ、だったら、私、いつも自分を疑ってます。自分よりも人の方が信じられるから……」

老師「その“疑う”は違うぞ。それは、自己嫌悪による自己否定じゃからのう。“疑う”のは、そんな自己嫌悪自体、無意味な事だったのではないか? ということの方なんじゃよ。人は皆、多かれ少なかれ、自分で自分を嫌悪している。それは、自分の内に、“こうであったらいい”、“誰々さんのようになりたい”という、“何かへの比較”が存在するからなんじゃよ。その理想とする自分とほど遠ければ遠いほど、人は自分を憎み、傷つけていく。それは、救いのない自己否定となる」
弟子「たしかに、そうです。私の自分を疑うのは、自分に自信がないからです」
老師「フォフォッフォッ、じゃが、その自信のない自分は、何かの比較から生まれた自己嫌悪の対象としての自分じゃろ。ならば、それが、本当の自分とは誰にも決めつけられんよ」

弟子「では、“本当の自分”とは何なのでしょう?」
老師「それを見つけることが、自分と向き合う、ということなんじゃないかのう?」
弟子「……」
老師「……人は誰でも、真っ新な白紙の状態で転生してくる。誕生の時に、“忘却の門”をくぐるからじゃ。それは、“宇宙の慈悲”のシステムなんじゃ。あまりに辛い過去生の記憶があっては、生まれながらに自己嫌悪になってしまうからのう。だから、赤ん坊は、すべてを“やり直す”決意で地上に降りてくるのじゃよ」

弟子「……では、過去生の、いわゆる前世の記憶は必要ないと。……ならば、何の為に、過去生を霊視できる能力や過去の記憶を留めている人が存在するのですか?」
老師「知り合いに、そういう者でもおるのか?」
弟子「いえ、別に……」
老師「まさか、ドテラを着た……」
弟子「えっ、誰ですか?」
老師「いや、何でもない……視えているフリなら誰にでもできるからのう……」
弟子「そんなムダな事をする人なんていませんよ、老師」

老師「相変わらず、人が良いの」
弟子「えっ?」
老師「まあいい。話がちと脱線するがの。……人は、ただ白紙で、何も知らずに降りてくるわけではない。直前の前世までで克服できなかった“自我の執着”を今度こそ克服するために、降りてくるのじゃ。だから、自分を修正する道標になるような、記憶の断片は、誰にでも存在する。能力者は、神に赦されて、その断片から過去を辿り、現在の修正に必要な事だけを“視せて”もらうのじゃよ。まあ、大きな意味で、アドバイザーみたいなもんかのう」
弟子「なるほど、それなら、納得がいきます。この世界に、意味のない存在はない、ということですね」

老師「そうじゃ。自分と向き合うとは、不完全な自分を視ることではなくて、“可能性を残した自分”を発見し、自分を“許す”ことに他ならないのじゃよ」
弟子「自分を許す……、そんな事ができるなら……」
老師「だって、神は、すでにとっくに“許しきっている”のじゃから。だから、転生することを許されたのだよ」
弟子「転生って、義務のような、罰のように、思っていました」
老師「誰が決めたの? 人に生まれながらにして“罪”があるなんて? 何のためにイエスという存在が、すべての人類の自己嫌悪を背負って、今も地球と共にあるのか? すでに、とっくの昔に許されて、今も許され続けているから、人は生きていられるのに……」

弟子、呆然となり……

弟子「……人は、すでに、許されている……」
老師「自分を“許す”とは、自分を“好き”になることじゃよ。人は、そのために生まれてきたのだから。そうして、幸せに成るためにのう」

弟子「老師! 老師はいったい……」
老師「ふぉっ、ふぉっ、ふぉっ、ふぉうー」
弟子「バルタン星人かい!!」

老師の姿がゆらめき、後には、地球の自転の音が響く。ゴウン、ゴウン、ゴウン……。  


 
2007年 8月31日 記