風の言葉 – 07

病気は「病む」気、それとも「止む」気?

名は体(たい)を表す、っていう言葉があるよね。
名前は、その人間の生まれてきた目的や方向を「表現」する、ある意味、オーラの鋳型(いがた)だから。
親が何気なく付けていても、本当は、本人がお腹の中から、テレパシーを送っていて、それに感応しているんだ。

同じように、言霊(ことだま)が、その本質を表している言葉や文字って、結構ある。
「病気」もその一つ、かな。

昔の人は、「気を病む」と考えた。「病いは、気から」と。
現代社会の、ストレスから病気になっているのを予言するかのようだね。

でも、本当は、もう一つ意味があった……。

「気(オーラ)」が、「止む」んだよ。
気が滞って、流れない状態、かな。
ほら、肩こりって、血の巡りが悪いとなったりするでしょう。
 
で、血の巡りは、気の巡りの反映でもあるんだ。
曰(いわ)く。「血」の正体は、「霊」であり、物質的には、「気(オーラ)」の変化したモノなんです、と。
なるほど、オーラも目に見えにくいけれど、一応、物質だからね。肉眼で観察できない紫外線や磁力線と同じ、かな。

身体を循環している気(オーラ)がどこかで流れが悪くなっていたり、詰まっていたりすると、その部位に病気として現れたりする。
それが、病気のメカニズムだったのネ、銭形のとっつあん。
じゃあ、どうして、気が止むのか? それか一番の問題。
「病気」は、その人自身の生活態度や心の習慣から生まれたモノ。ストレスもそういう環境に身を置かなければならない自分の選択だったりする。ならば、極言すれば、「病気は、その人自身が作ったもの。その人の責任」と、なる。ミもフタもないけどネ。前に、ある人に言ったら、「変わった哲学ですね」と言われたよ。(その人は、「病気は、先祖のカルマが原因だから、本人には絶対に治せない。だから、お布施をたくさんして信仰心を捧げることが必要」という宗教の人だったけど。)

その滞った気の流れを、元のように流して、循環させていく良い方法はないか……?と、いろいろと考え出された。

鍼やマッサージ、カイロブラクティックなんかもそうかな。
でも、あくまでも肉体に刺激を与えて、そこから「気」に反映させる施術だった。
もちろん、これまでの人類に与えた偉業は素晴らしいよね。

でも、あるとき、誰かが考えた。
人間の本体が、肉体ではなく、オーラそのものなんだとしたら、そのオーラを健康に保つのが、一番効率的なんじゃないか? と。
ならば、「気巧」はどうよ?
インドで生まれて、中国で発展した「気巧」は、直接、人間のオーラにも関わる施術。
だけど、今の時代は、人間の「霊化(精妙な波動体への進化)」が進んでいる。特に、意識の自立を無意識に求めるようになった21世紀は、他人の「気」の干渉を嫌うようになった。
石炭の時代が終わったように、気巧の働いてくれた時代に敬礼!

人は誰でも、本当は、自分で自分を癒したい、から。頭から、自分では無理だとあきらめていただけ。
 
また、「宇宙(どこのだろうね?)」や「神さま(しつこいけど、どこの誰様?)」と気を合わせて、それを注ぎ込む、あるいは、中継する、エネルギー療法とか、も現れたりしたよね。いっぱいあるから。
うーん、どうなんだろうネ。僕は、何度か視たけど……。
なんか、気巧みたいに感じるものが多かった、気がするよ。施術者本人の「自我」のエネルギーが入らなきゃいいけど。

それにね、気の遠くなるほど人類を観察してきた、浪速のビリケンはんから聞いたんだけど、今の地球人は残念ながら、日常的に「高い光の意識」とやらには、繋がってられないんだと。(エエッー! じゃあ、どこと繋がっていたんだろう!) 
ううう、ショックうー。
ずっと、祈り続けて、いつも自分の感情を統制できている人は違うんだろうけど……。

じゃあ、こんな私たちでも、誰でもできる、しかも、本人が自分で自分の病気を克服する為のサポート、みたいな施術はないものか? と調子の良いことを考えていたら、ありましたわー。
Body Lightening (ボディ・ライトニング)ですがな。
その人の「気」を循環させていくだけ、しかも、その人自身の「気」に任せて。

すると、「止む=止まっていた」気が流れ出したでは、あーりませんか。

でも、宇宙は、いつも深遠だから。
「止む」には、さらに奥があったのだよ。
 
それはね、「止む」は、「止(と)める」こと。掴(つか)んで放さない「執着」の状態。
人が、無意識に「掴んでいる」時、病気はちっとも良くならなかったりする。
個人差があるのは、そのせい。

でも、そこに「病気」の深い意味が隠れていたりする。
本人が「気づかなければならない何か」を教えてくれていたりする。
だから、ある人は、いつまでたっても「痛み」が取れなかったり、発病している部位や症状を変えて、何度でも現れたりするんだ。
 
たけどね……、そのことも、「自立」に向けての「一歩」なんじゃないかな。
最近、そう思うんだ……。

2007年 8月6日 記


余談だけど、Body Lightening (ボディ・ライトニング)の施術者の方々に、ちょっと一言。
何度施術しても、ちっとも良くなったように感じない(非常にマレだけどネ)、一時はとても症状が改善されたのに、いつの間にか戻ってしまった。そんなケースで悩んでなあい?
自分の技術が未熟なせいじゃないか?と。
確かに、場数を踏む、と言うか、練習は大切だよね。経験は何よりも尊いから。
でも、ボディ・ライトニングは、本人の気(オーラ)を循環させるだけ。「病気治し」じゃあ、ない。
ボディ・ライトニングを学ぶ時に、気を付けなければいけないのは、「病気を治せるのは、どこまでいっても本人だけ」ということを決して、忘れない事。
そして、その人が「掴んでいるモノ」を注意深く観察することだろうね。
時に、人は、病気自体を掴んでしまって、放さないこともあるから……。

じゃあ、やっぱりBody Lightening (ボディ・ライトニング)にも限界があるんじゃん、とガッカリするのはまだ早いよ。
何故なら、「掴んでいる自我」も気(オーラ)を流して、きれいにし続ければ、「記憶」という磁場が薄れて、だんだんと掴まなくなっていくよ。
ただし、焦らないこと。昨日、今日で、病気になったのじゃないでしょ。本人の自覚と比例するからね。
三種の呪文、Bochi Bochi Denna の神髄、ここにあり!でんがな。