今週のお言葉 – 74

夜明けに……数十億の光
「メリークリスマス!」
「クリスマスケーキ、今なら半額デーす。いかがですかー」
その町には、クリスマスの明るい声が響いていた。
今年も例年のように、「相模原木曜パトロール」の人たち主催の、相模原市の淵野辺公園や相模大野駅等で野宿を余儀なくされているホームレスの方々にクリスマスプレゼントを配るボランティアに参加させていただいた。
「クリスマスに愛を込めて」と書かれた赤いハートの紙の貼られた紙袋が16個。その中には、東林間の翠ヶ丘教会の有志の方々がくれた、まだまだ十分に着れる衣服が入っている。さらに、買ってきたまっさらなシャツとパンツ、靴下等の下着、貼るカイロ、歯磨きと歯ブラシ等、そして、焼いたクッキーやチョコレート。みんなで握ったおにぎりと熱い豚汁も用意されてあった。
それらを夜の冷え込んでくる時間を見計らって、野宿している場所を訪問して、プレゼントを配り歩いていくのだ。
12月25日、夜8時。気温は、去年ほどではなくても、公園で野宿する人には十分に寒かったと思う。
息を吐くと白い呼気が大気に解けて消えていく。
真っ暗な公園を大きな毛布や紙袋、保温ジャーを持って、15人ほどのボランティアが歩いていく。
夜の公園は、人気(ひとけ)が無く、木々が静かに呼吸している感じである。
冷たいコンクリートのベンチに幾つもの影が横たわっている。何もすることがなく、また、何もできなくて、毛布か寝袋にくるまって眠っているのだろう。
聖なる眠りだけは、誰にも平等だから。
「こんばんわー、メリークリスマスです」
小さな声で挨拶していく。大きく元気な声では、驚かせて、起こしてしまうからだ。また、誰かに襲われるのでは? と脅えてしまうかもしれない。「メリークリスマス」という明るいかけ声がこれほど似合わない雰囲気もないように思った。
訪問を喜んでくれて、プレゼントを受け取ってくれる人、人に何かの施しをもらうのを拒否する人、戸惑って、どう反応すれば良いのか、わからない人。いろんな人がいる。
『もし、自分だったら、人の好意を喜んで受けられるだろうか?』
簡単には、想像もできない境遇に思考は停止してしまう。
野宿者、いわゆるホームレスは、「特別な人」などではない。家族と共に暮らし、普通に会社に勤めて、週末には、近くのショッピングセンターに買い物に行く、そんな暮らしを昨日までしていた人たちがほとんどである。中には、複雑な事情のある人もいるだろう。借金で身を隠さなければならなくなった人、ギャンブルですべてを失ってしまった人もいる。それでも、出来るなら、屋根のある、雨露をしのげる所で、普通に暮らしたいと願っていない人はいない。
「すべての外に起こっていく現象は、人の内側の想念から起きていく」
それは、頭では理解し、真理であるには違いないが、過酷な境遇を見ると、どんな運命のいたずらなのか!と、思わずにはいられない。
ふと、24日のクリスマス・イブの「キャンドルライトサービス」の時に、翠ヶ丘教会の井殿牧師が話されていたことを思い出した。
「……ある牧師さんが言っていました。クリスマスは今では、恋人同士が愛を確かめ合ったり、子どもたちにとってはゲームを買ってもらったりする“嬉しい日、楽しい日”になってしまいましたが、本当のクリスマスはそんな甘いものではないと。たくさんの人たちの、私たちすべての“罪汚れ”を身代わりになって引き受けてくださった方をそっと偲んで、讃える日なんです……」
冷たいベンチに横たわる人たちは、そのイエス様がもっとも気にかけた人たちでもあるのだ。
二つ目の公園を回っている時から、急に雨が降り出した。ぱらつく程度だが、冷たい。身体の芯まで、冷やしていく、そんな雨だった。
三つ目の公園を廻り、相模大野駅に着いた。時刻は、10時を過ぎていた。
中央の駅前広場では、巨大なクリスマスツリーの飾りの撤去作業に入っていた。昨夜、ここで40人ほどの聖歌隊がキャロリングで賛美歌を歌ったのだ。その華やかだった場所は、お正月の飾り付けの準備のために、とても殺風景な景色に変じていた。
「せめて、今日の12時まで、クリスマスツリーを残しておいてくれればいいのに」
誰かがつぶやいた。
ニューヨークやヨーロッパでは、1月の6日くらいまでは町にクリスマスの飾り付けは残っているという。
お正月飾り一色に切り替わる日本の年末の慌ただしさは理解できるが、「本当のクリスマス」は、きっとどこの町にもないのかもしれない。クリスマスは、町にとっては、単なるビジネス商戦の一つに過ぎない。各家庭のクリスマスの電飾も、年々派手になって行くが、ホームレスも年々増えていく。
商業的な光は、イエス様が見つめた、「本当に苦しんでいる者」たちの闇には届かない。
駅の地下駐車場の片隅で、眠っていたホームレスの一人を見たとき、自分の左目が痛んだ。階段で転んで、落ちたのだという。腫れて内出血をし、膿が出ていた。思わず、ボディ・ライトニング(Body Lightening)で、痛んだエネルギーを流してしまった。それまでは、目立たないように、ホームレスに憑いた不浄のエネルギーを祓っていたのだが……。
けれど、何よりも凄かったのは、ボランティアに参加していた一人の主婦が、「私、明日、この方を病院に連れていきます」と名乗り出た事だった。すると、他の男性も「ならば、俺も一緒に行きます」と声をあげた。僕は、予定もあったけれど、それ以上にとても言い出せなかった。ものすごい匂いに引いていた情けない自分が居た。
言い訳に聞こえるかも知れないが、雨露だけでなく、冷たい風までも防げる駅の構内や地下道に居る方より、公園の木々に囲まれて眠っていた方たちの方が、「気」が澄んでいたように思う。都会の片隅でうずくまるうちに、通り過ぎる人々の無関心な心や冷たい視線、邪魔者扱いする警察官などの心の攻撃を受けて、次第に、「陰の気」が濃く張り付いてしまったように思うのだ。夜の公園はとてつもなく寒く、吹きすさぶ風に、足まで凍るけれど、星や月や木々のエネルギーに洗われて、心は孤独であっても、澱んでいないように感じるのだった。
もちろん、その事で、公園で眠るホームレスを肯定する気はさらさらないが。一人でも多くのホームレスが、家庭のぬくもりをもう一度取り戻せたらと願う。
ただ、難しいのは、ホームレスや弱者に冷たい行政の仕組みや人々の無関心もさることながら、多くのホームレス自身が強い「ウツのエネルギー」に支配されていることだ。そのために、本当に多くの目には見えない不浄な霊的エネルギーがくっ憑いていたりする。異臭も垢じみた生活臭だけではなく、それらの霊体から匂う「霊臭」だったりする。
今年は、はっきりと思ったのだ。もし、ボランティアの人たちすべてが、Body Lightening を学んで、パトロールのたびに施術できるなら、多くのホームレスの人たちが「正常な気」に戻って、生きていく気力や勇気を取り戻すことができるのではないか、と。
ホームレスだけではない。たとえば、老人ホームで働くヘルパーの人や、介護サービスに従事する人、そういう人たちまでがBody Lightening ができるようになれば、高齢化する社会も少しは和らいでいくように思う。
今からちょうど10年前に書いた、『癒すこと、癒されること』のあとがきに、「宇宙を癒す、数十億のヒーラーたち」と夢みたいなタイトルを載せた。
「地球には、数十億の人間がいる。すべての人がダイレクトに高い意識と直接につながることを望めば、それは、一人一人が皆、ヒーラーになるということでもある」
『癒すこと』には、「ヒーリングとは、その人に目の前で起こっている現象の奥に、心の内側に目を向けさせていくことである」とも書いた。また、「祈りの道に沿うヒーリングを行う人は、“原因と的確な治療法”を天から教えてもらえ、また、どこまで自分がこの問題に関わればいいかも導かれる。そうして治ったケースは、本人の自覚が違うために、二度と発病しないばかりか、人生まで改善されていく」とも書いた。
そして、約10年、僕は待ち続けた。そんなヒーリンクに出会えないものかと。けれど、自分の知る限り、「依存」を中心にしたヒーリングしか現れなかった。自分に頼らせたり、雰囲気だけで、現実の「結果」が出せないものばかりだった。時には、国立のK先生のように、素晴らしい心と技術を持った人たちにも出会えたが、その人たちの「技」は超人的すぎて、他人に簡単には伝授できそうもなかった。
そんな中で降りてきたのが、Body Lightening だった。誰もが「学ぶ」ことができる。実際に、効果も出る。結果も出る。
そして、8番目までの精霊体までが誕生して、的確な治癒に自動的に働いてくれるようになった。施術者は、「病気」の知識はおろか、存在さえ、知らなくてもいい。その人の過去生の事も必要なら判り、心の奥にしまってある「病気のトラウマ」さえ、無理矢理告白させる必要もない。
何よりも、治療者は「自分自身」であること。
待っていても現れなかったヒーリングが、気が付いたら、目の前にあった。
もう時代が待てないから、受けられる人がいないから、ここに降りてきてくれたのか、と今では感じている。
11月30日には、仙台太白区の空に、「光を導き入れる手」が現れたという。いよいよ「浄化の始まり」なのだとか。
この世に、偶然が一つもないのなら、Body Lightening の出現も必然なのにちがいない。
「私一人では何も出来ないけれど、たくさんの人が集まれば、なんとかなるかもしれない……」そう思って始めた、「愛の光500」運動のように、Body Lightening も多くの施術者を得て、一人でも多くの人が「真の幸福」を目指していけるならば、本当の夜明けは近くなるように思う。
クリスマス・イブの「イブ(Eve)」は、一般には、Evening(夜、晩)の略だと信じられている。けれど、本当は、アダムとイブの「イブ」のことなのだという。
イエス様を生んだ、乙女マリア。執着を越えた愛の母性の象徴。Body Lightening を女性だけに教えるように決めたのも偶然ではないのかも知れない。
地球上のすべての女性は、数十億にもなる。その女性たちが、光のヒーラーとなることが、地球の浄化と深く関わっているのだとしたら、2007年からの変化は、目が離せないものとなるだろう、そんな予感がしてならない。
皆さま、どうか、良いお年を!