今週のお言葉 – 69

人はパンのみにて生きるにあらず!

あなたは、「生きて」いるだろうか?
 
あなたは、「今の自分の生き方に満足して生きている」だろうか?

突然、乱暴な質問に驚かれたことと思う。

……昔、僕は「自分の好きなことをして食べていく」ことに憧れていた。
それが、将来、どんなものになるのかわからなかったが、とりあえず、「好きな」ことができて、それで生活していけるなら良いなあ、と単純に思っていた。
僕は、きっと、「好きなことを職業にすること」が、「天職」だと思っていたのだ、と思う。
今でも、多少、そういう部分は残っていて、苦しんだりするが。

だが、あることからホームレスのボランティアに加わったときに、「好きで」していることではないのに、何故するんだ?、と感じている自分が居た。
よく、ボランティアをしている人が「自己満足です」と言ったり、それを聞いた人が、「妙に安心」したりするが、本当にそうだろうか? と考えてしまう。
「そうせずにはいられない」自分が居て、いてもたってもいられないから、「する」だけではないのか?
 
確かに、それも自己満足の一種なのかもしれない。でも、何故、「そうしなければ落ち着かない」のかを自分自身に問うてみたとき、それが、「自我」からの思いではなく、魂からの「欲求」であることに気づいたりする。
「見て見ぬふりができなかっただけ」で、本当は、心では「イヤイヤやっている」ことだってあるのだ。そう言うと誤解されるかもしれないが、それでも、その人の「自我からの拒絶」よりも、「魂からの行動」が勝っているとき、その人は、気が付くと、人に手を差し伸べていたりするのだと思う。
それでも、まだ「自己満足」と言えるのだろうか?

『すべての人は天に雇われている』(学習研究社)のヒント85にも書いたが、趣味や好きな事は、主に「自我」からの望みだったりする。しかし、「天職」は、「魂」からの望みである。極端に言えば、「自分では就きたくない仕事」だったりすることもある。それでも、そこに進んでいく「魂からの渇望」があるのだ。

僕は、別に「好きなことをして、楽しく生きていく」事を反対しているわけではない。断じてないぞよ。
それどころか、そんなことが出来る人をうらやましく思い、また、拍手喝采を送りたいと思う。なぜなら、神さまは人間に「この世界で陽気暮らしをさせたい」と願っているからだ。
一人でも多く、地上にそんな人が現れたのなら、まさに祝福ではないか。

だが、実際には、さまざまな労苦は多い。好きで始めた仕事でも、苦労の連続だったりする。でも、その苦労も角度を変えてみたときに、「では、しんどいからやめるか? もっとラクな仕事に移るか?」と、問い詰められれば、「いえ、このままもう少し頑張ってみます」と言ったりするのではないか?
そのとき、その人は、きっと「天職」の傍にいるのだ。

今、あなたが求めている仕事や職業があって、果たして、それで食べていけるかどうかで迷っているとき、僕はあえて言いたい。
「とりあえず、やってみたら! やっていけるかどうかは、その仕事が選んでくれるから」と。

また、すでに、その道に入っている人で、なかなか自分の思うように計画も経済事情も発展しないで、泣き言も愚痴も怒りも一通り経験していたのなら、それでも、こう聞きたいのだ。
「じゃあ、辞める? 」と。

もし、「もう疲れた」、「もう気が済みました。辞めます」と本当にあきらめられるのなら、それは、残酷な言い方かもしれないけれど、「魂からの欲求」ではなく、「自我で求めたもの」だったのだと気づく方がいい。きっと、別の道がちゃんと開いているのに、無視して、そこに進まなかったりしていたのかもしれないからだ。
 
僕は、「この宇宙は、万に一つの狂いなし」、と信じている。それが、事実だとイヤと言うほど知らされ続けてきたからだ。

人が生きていく、ということは、いかに「魂からの欲求」に身を任せていくか、ということのように思う。
イエス様が、荒れ野でサタンを退けた言葉。
「人はパンのみにて生きるにあらず」は、自我の欲求よりも大切な「魂からの衝動」が、その人の生の原動力、その人が「今生、生まれてきた理由」を導いていくのだと。