今週のお言葉 – 45

一人じゃないから、一人でいられる

(昔見た、ユニマットという会社のCMコピーです) 

ぼくは昔、今でも多少そうだけど、ひどい人見知りで、人の多いところに行くのが苦手だった。
本来は、とても寂しがりやのくせに、他人と関わり合うのが怖かった。

パーティなど、めったに呼ばれることもないのだが、行くと必ず壁の花状態で、「早く切り上げて帰ろう」と考えていたように思う。

呼んで頂いた主催者の方にはたいへん失礼なことなのだけど。

孤独を嫌うくせに、人といる時の方が辛い、その矛盾の中に苦しんでいたように思う。

ある時、フランスの女流文学者フランソワーズ・サガンが新聞か何かのインタビューにこんなことを答えていた。
「私は、たくさんの人に囲まれれば囲まれるほど孤独を感じる……」
ああ、同じように感じている人がいるのだ、と。それが僕が彼女を大学の仏文科の卒論のテーマに選んだきっかけだった。

独りの孤独は辛い。でも、理解し合えない関係はもっと辛い。
自分のことを理解してもらいたい。わかってほしい。でも、理解されない相手なら、もっと要らない。
多くの人も、そう思っているのではないか……。

人は、自分の感じているもの、見ているもの、聞いているもの、味わっているもの、を真に分かち合うことは出来ない。
同じ夕日の美しさに感動しても、その感動はきっと微妙に違う。
偶然のシンクロニシテイ(共時性)が働き、まったく同じ感動に包まれたとき、
人は、相手に恋をし、魂を委ねたいという誘惑にかられるのではないか? それが異性、同姓に関わらず。

同じ孤独を感じ、同じ光を求めるなら……。
そんな人が、この地上にたった一人でもいるなら、自分を真に理解してくれる誰かが、一人でもいるなら、人は癒される。
その人がたとえ遠くに離れていても、自分と一緒にはいられなくても、人は自分の理解者を得ることで、真に生きていける。
 
インドの哲学者クリュシュナ・ムルティーは、「信奉者はいらない。たった一人の理解者がいればいい」とつぶやいた。


この宇宙は深遠な構造を持つ。
人に理解されるためには、自分が誰かを愛さなければならない。
愛して、初めて、人は真に相手を理解できるから……。
愛するとは、理解しようと努めることだ。

そして、人を愛せたとき、自分も誰かに愛されていることに気がつく。

愛するとは、自分自身と対峙することでもある。
これがもっとも難しい。
なぜなら、弱い自分を見、克服を求められるからだ。

「そのままの自分でいい」のなら、人はこの孤独に満ちた地上に生まれてなど来ない。
「進化」という響きは冷たいけれど、その真の姿は「愛」である。

僕は、地球の、神の孤独を想う……。


 

 

★映画「HERO」で、孤独に苦しんでいた秦の始皇帝が、自分の真の理解者が自分を殺しに来た刺客だった事を知った時の苦悩。また、「アマデウス」で、モーツァルトを真に理解できたのは、彼を激しく嫉妬したサリエリだった。理解者って、本当に……。