今週のお言葉 – 37

「これは、神だ」

屋久島で「縄文杉」を見た、C・W・ニコルさんの言葉(だそうです)

……その「光の樹」は、地上の悠久の時の中で半分まどろみ、後の半分は、母のような宇宙の掌(たなごころ)の中で意識を遊ばせているように見えた。

ずっと前から憧れていた。
頭の中に、あるモチーフがあって、次への何かに、その存在が必要だった。
具体的に、どうというのではないけれど、「きっかけ」のようなものを待ち望んでいた。

自分ではいろいろな写真でも見てきたし、映像や本からの知識もかなり豊富に持っているつもりだった。
けれども、やはり実物を見るまでは、そこから前には進めなかった。
……僕にとって、屋久島の縄文杉は、そんな存在だった。

その縄文杉に逢ってきた。
大きい! 見ただけで、ただ圧倒される。
 
縄文杉の樹齢は定かではないらしい。2600年から7200年までと幅が広い。
一本の木ではなく、何本もの樹が寄り合わさっているのだという説もあった。
放射性炭素による樹齢測定では、2170年というもっと若いというデータも出ている。
けれど、最近、枝や根っこの部分の遺伝子を調べてみて、どうやら一本の樹らしいことがわかってきたという。

結局の処、正確な樹齢は今もわかっていない。
少なくとも、人間の知識の中では……。
 
昔と違って、縄文杉は、木の柵で囲われていて、遠目にしか見ることが出来ない。
人が近づくと、根などを踏んで、樹を弱らせるからだ。
多くの観光客は、縄文杉の前でただひたすらカメラのシャッターを押し続ける。あるときは、前でVサインをしたり、カップルで人に撮ってもらったりする。
「この縄文杉を保護するために、周囲の何百本、何千本という樹が切られました。しかも、地面は見ていただけるように木屑で覆われています。原生林が命の屋久島の、自然の中の不自然な樹という人もいます。」
「昔、森の中には、神さまの許しがなければ入れませんでした。まして、この樹には、普通の人が逢いに行ってはならないとされていたのです」
エコツアーのガイドさんたちは、縄文杉に関する最新の知識を披露したり、時には、島の古老からの言い伝えを語る。その説明に、ほとんどの人は一生懸命にうなずいている。
きっと皆、自分でも説明のつかない感動をどうしていいのかわからない、そんな想いを持て余しているのだろう。
何かを、確かに感じているのだ。ただ、それが何だかわからない。
 
じつは、縄文杉を見たとき、僕は二つの方法で観察してみた。
一つは、肉眼でその圧倒的な偉容を眺めた。
人は、「ただ大きい」というだけで、感動する。そこだけ、森の音が止まったようになっている空間。そこにいると、自分の居場所を失うような、同時に、樹に吸い込まれていきそうな錯覚を覚える。古代の人たちが、森の中の大木を「神さま」として信仰したのが理屈抜きでわかるような気がする。
そして、次に目を閉じて、息を止め、その後、ゆっくりと呼吸をしながら、縄文杉をそろりそろりと探ってみた。
すると、樹の輪郭がどんどんと大きくなっていくのが感じられた。
実際の樹の幅は、5メートルほど(それでも大きい!)なのに、その「気圏」は、20メートル以上もあった。
それが、想像を絶する縄文杉のオーラだった。美しい黄緑色と金色の混ざったような光の衣(ころも)が揺れていた。
それだけでも、その樹がただ者でないことは実感できる。
人間が、その限られた知識で、あれこれと言える存在ではないのだと。

いくらでも、調べてごらん。
縄文杉は黙って微笑んでいる。
科学者たちが気の済むまで調べても、その人達の何代も後の子孫よりも、縄文杉は長生きするだろう。
そして、謎は、宇宙の中に抱き込まれていく。
僕は、北欧神話にある、ユグドラシル(世界樹)を想った。天を支え、地球という惑星を宇宙と繋ぐ通路となった樹。神々の帰っていく道しるべ。

気の圏の広がりと共に、縄文杉の根っこの分布範囲の大きさを感じたとき、団体の前で説明しているガイドさんの声が聞こえた。
「皆さんが立っている、この台の下まで根が張られているのですよ」 
 
縄文杉の本当の存在の片鱗を、意識で感知したとき、僕は激しく後悔していた。
「御姿を撮らせていただいてもよろしいですか?」
尋ねる想いで、カメラを向けるべきだったと。
それまでのトロッコ道を含め、その道程を「六根清浄」を願いながら渡る、千日かいこう行に向かう阿じゃ梨僧のような気持ちで歩くべきだったのだと。

きっと、縄文杉は、無礼な僕のことなど、笑って許してくれるだろうけど。
その日、僕を含めたすべての観光客は、この雨の島では珍しい、抜けるような青空の下に「招いていただけた」のだと思う。
ただ、そのことに感謝して、僕は山を下りた。
 


★多くの人が、本や雑誌で縄文杉のことを語っています。たった一度「見た」だけの僕が、何を語れるものではないけれど、「目を閉じて見た」時に、「目には見えないものが見えてくる」そんな観察の仕方もあるのだということを、知ってほしいと思いました。きっと、僕は、人間の言う科学的な樹齢測定なんかが好きじゃないのだと思います。


☆それにしても、杉の木は、手を触れるととても温かいのです。冷たい雨の中で触ってみても、やはり温かかった。縄文杉に触れることができたなら、どんなに温かいだろう。、そして、樹が見てきた歴史や世界が垣間見ることができるのでは……、そんな感慨に捕らわれました。


※放射性炭素による測定は、キリストの身体を包んでいたという聖骸布の測定にも使われましたが、微生物学者によると、付着した微生物が吐き出す炭素によって、実際の年代よりも新しい測量値が出ることを指摘し、実際にはそれほど科学的ではないことが問われ出しています。