今週のお言葉 – 33

そのとき、自分ならばどうする?
相田みつを
先日、知り合いのお医者さんのK先生が交通事故に遭われた。
バイクとバイクの衝突事故だった。
どこかのおばさんが運転する車が、十字路で一旦停止をせずに飛び出してきたのだそうだ。対向車線から来た原付のバイクが慌ててハンドルを切り、そのため、K先生の乗っていた120CCのバイクと衝突したらしい。二人とも、5~6メートルも飛ばされたという。
K先生は、自分の身体がゆっくりと飛ばされていくのが、事故の直前からスローモーションのように目に映ったのだと言う。
二人は救急車で運ばれたが、幸い生命に別状はなく、ケガで済んだ。骨折もなかった。
事故の原因となったおばさんの車はそのままいなくなっていたとか。……きっと、怖くなったのだろう。
話を聞いて、「それは、とんだ災難でしたね」と言うと、K先生はこう答えられた。
「……うん、これはね、他人の痛みを自分の身体で味わわされたんだな。私自身が“痛む”ことで、もう一度“治療の原点”に還るように神さまから教えられたんだな」
私は、それを聞いてうなってしまった。
「あの、おばはん、いてもたろかー」と思うどころか、事故を神さまの恩寵としてとらえる。言うは優しいけれど、実際に自分が事故に遭っても、そう思えるだろうか?
たいていの人は、「なんで自分がこんな目に!」と身の不運を嘆く。
いろいろと学び、すべての出来事は“内側”に原因があると知っている人でも、「これは、自分の心の何が原因だろうか? 人と争い、ぶつかる心が現象界に衝突事故として現れたのだろうか?」と考えるにちがいない。
しかし、なかなかストレートに不運を「神さまの恩寵」、サインだと取れる人はいないのではないか。
K先生は入院することもなく、その日のうちに家に戻られ、一日休んで、翌々日から仕事に復帰されたという。神さまからの“サイン”だから、仕事で応えるのだと。
痛む手足で患者さんの治療を続けながら、全治3週間のはずのケガは、みるみる回復していった。
私は、K先生の何事でもなかったかのように話される言葉の中に、「覚悟」のようなものを感じていた。
自分が結果的に選んだ道は、「そのように、生かされている道」なのだと。
「そのとき、自分ならばどうする?」。なぜか、相田みつをさんの言葉が思い浮かんだ。
自分ならば、自分ならば……、やっぱり、ギフトとしては思えないだろうなあ。
それは、日頃の自分の行動にやましい処があったりするから。
生かされている道、生きてきた道か……。
★余談だが、K先生は酷いケガをどうやって治されたのか?
聞いて驚いたので、皆様にもお伝えしたい。
それは、「サランラップ療法」という。
傷口を水で洗い、何の薬もつけずに水気をさっと拭く。そして、傷口より大きめに切ったサランラップをかぶせる。その周りを絆創膏かテープで止めれば出来上がり。
しばらくすると、傷口から血やリンパ液がじくじくとあふれ出てくる。けれども、サランラップの膜があるために、外には漏れない。ある一定以上に膨れ上がったリンパ液は、今度は外から抑える圧力のために、内側への内圧に変わる。そのとき、薄皮が再生されるのだという。その薄皮は、リンパ液の保護の中で、正常な皮膚の状態にどんどん戻っていくとか。
よく、お医者さんで傷口に薬を塗り、ガーゼで塞いで、そのまま絆創膏か包帯を巻いてくれるが、K先生に言わせると、ガーゼを取り替えるときに、せっかく再生された薄い皮膚まで引き剥がしてしまうのだそうだ。傷口が治りかけてカサブタができ、それを剥がしたら、またじくじくと血が出てくるのと同じなのだという。
サランラップは破れたら取り替えるだけで、血やリンパ液で膨れ上がってもそのままにしておくのがコツだという。
ちなみに、昔は油紙で行っていた古来からの療法らしい。
どなたか、ケガをされたらお試しあれ。 。