今週のお言葉 – 27

明日死んでもいいように……
「正月は冥土の旅の一里塚、めでたくもあり、めでたくもなし」
一休禅師は、正月の華やかに浮かれる京の都の町角で、こんな歌を詠んだ。
正月はめでたいと言うけれど、誰もが一つ年を取る。それは、寿命に近づく節目でもあるのだと。
日本では、多くの人が年の瀬を迎えて、忙しく、また、楽しく年越しの準備をしているにちがいない。
だが、遠く海の向こうのイランでは、大地震のために悲しみに暮れる正月を迎えなければならない。
……私たちと彼の地の人たち、同じ人間として何の差もないはず。「運命」という言葉では、とても割り切れない。
私事だが、今年の暮れにも、ミュージシャンのSさんとEM無農薬農法家のNさんと小学校の時からよく知っているY君の四人で、
忘年会を開くことができた。一年に一度、七夕様のように、毎年暮れに逢う約束をして、もう6年になる。
今までは「逢えること」が当たり前だったのが、今年はなんだか、とても懐かしく、またひとしお嬉しく感じられた。
年を取ったのか、とも思うが、この数年、周りで何人かの知り合いが亡くなったからだと思う。
よく、言葉では「一期一会」と言ってきた自分だが、本当に人との「出会い」は稀なことなのだと今更のようにしみじみ感じている。
「じゃあ、またね」という言葉が、いかに希望に裏打ちされたものであることか。
今の時代、人は、自殺なんかしなくても、いつ死ぬかわからない。
もし、明日、自分が死んだら……。
いろいろな事の整理はできているだろうか?
かつて私は親しい人が死んだ後の持ち物整理をしたことがある。
そのとき、本人しかわからないことが多すぎて、どう処理していいやらわからず、本当に苦労したことを覚えている。
そのときから漠然と、自分が死んだら、できるだけ人に迷惑をかけたくないものだと考えていた。
世の中には、毎年暮れに「遺書」を書く人もいる。自分が死んだら、保険証書はどこに、遺産は誰と誰に、どんな埋葬を希望するか等、細かく書き連ねてあるらしい。そして、その年一年生き延びたら、暮れにまた同じ事を書くか、修正を加えたりする。
「死ぬことを予期する」なんて、縁起でもないと嫌がる人もいるだろうが、私は賛成である。
少なくとも、あとに残された人のためにはなる。
また、人に見られて恥ずかしい思いをするものは、残さないように……したい。
さて、物質的な整理はひとまずとして、心の整理の方はどうだろう?
思い残すことはないだろうか?
あれもしたい、これもしたい、こんなこともしたかった……。多くの人は、「やり残した」ことを口にするだろう。
人間はそうして、何度も転生して来たのに。
今の私は、できるだけきれいに死にたいと思っている。
思えば、私は人に対して、自分勝手で、自己中心的だった。口では、相手のことを心配しながら、本音は、自分のことを第一に考えてきたように思う。そうして、いろんな人を傷つけ、エネルギーとして世の中の不幸に加担してきた。
想念の毒を撒かず、人を妬むこともなく、憤りや、恨みを残すことなく、死ねたらと思う。
あのガンジーは、「自分が銃弾に倒れるときに、神様を思うことができれば、自分を少しは誇れると思う」と言った。
明日死んでもいいように、のためには、自分の心の中を浄化し続けなければと、思う。
大晦日の大掃除の後、一人静かに座して、心の中に浮かぶ人たちに心底から懺悔をし、心の汚れを掃き清めて、静かな夜を迎えられれば、少しは、近づけるかもしれない。