今週のお言葉 – 22

祈りは神を変えず、祈りは人を変える                                           

ゼーレン・キルケゴール デンマークの思想家 

アメリカのイラク攻撃の可能性に対し、多くの人が反戦運動をくりひろげている。
メールでも、反戦署名運動参加の呼びかけが送られてくる。
戦争だけはイヤだ! なんとか回避したい。
そう思いながら、どこかで「あきらめ」に似た感情もある。
ただ、もし、起こったなら、かつての湾岸戦争の規模ではすまないだろうと感じている。
 
昨年、無邪気な子どもミックモックを主人公にした、『こどもの大統領』(学研)を出版させてもらった。
ミックモックは、著者である私自身を含め、戦争放棄の憲法を持つ唯一の国である日本の人々に、「日本のあるべき未来」を教えてくれている。
「戦争」から意識を離したい。
そして、「平和」に意識を向けたい。
それは、「反戦」ではなく、音楽家・坂本龍一氏の言う「非戦」なのだろう。
  
先日、ある教会の朝の礼拝で、こんな話を聞いた。
湾岸戦争の時、多くのキリスト者が、「どうかこの戦争が早く終わりますように」と、祈っていた。その中で、一人のアメリカ人の女性神父だけが、『主よ、この戦争を止めることが出来なかった私の罪をお許しください』と祈っていたという。
その場で祈りを聞いていて衝撃を受けた一人の日本人牧師が、アメリカのイラク攻撃に反対して、沖縄からバクダードに「福音」を伝えるために渡ったという。
「戦争が起きると、私たちキリスト者はいつも集まって祈ります。抗議もします。しかし、それまでの自分たちのあり方を“懺悔する”ことは、ほとんどありません」
その牧師は、「今度は懺悔の祈りをしないために」と、イラクに旅立った。

私もその話に深い感銘を受けた。
祈ることは誰でもする。だが、多くの場合、「どうか、なんとかしてください」という「お願い」ではなかったか。
神に頼って、神に動いてもらおうとする、「甘え」ではなかったか?
祈っている、「私自身」はどうなのか?
その祈りをするにふさわしいだけの「愛=行動(自分から放たれる波動)」を実行しているのか?
そのとき、初めて、「この戦争を止めることの出来なかった私の罪」に思い当たる。

人々と「調和」して生きてきただろうか?
憎んだり、怒ったり、妬んだり、しなかったろうか?
いつも、隣人やすべての生き物に「愛」を注いできた自分だったろうか。

否! と、うなだれる「私」がいる。
 
ならば、彼の地で起きようとしている「戦争」は、私も起こしたものの一人なのだ。

「戦争はイヤだ!」と、強烈に願おう。
そして、自分の中から、「怒り」の波動を追い出そう。
“明鏡止水”の心になるために。