今週のお言葉 – 21

求めよ、されば与えられん
天より与えられしもの!
御心に叶うのでしたら、どうぞすべてのことを備えてください。
西村久蔵さんの祈りの言葉より
前回の「今週のお言葉」で、西村久蔵さんという、「キリストの愛」を生きた方の「祈りの言葉」を紹介した。
「御心に叶うのでしたら、どうぞすべてのことを備えてください」-その祈りこそ、ぼくは「真の祈り」だと感じている。
自己暗示や念力的な、「願えば叶う」という“祈り”は、「お願い」であって、本当の祈りではないのだと。
さらに言えば、そのことを願っているのは、いったい「どの自分」なのか? ということも重要なのだと。およそ、「自我(エゴ)」から出た“願い”は、本当にはその人の「真の幸せ」には、つながらないからだ。
そして、天は、「魂の望み」からの“祈り”に感応して(応え給うて)、“与えて”くださるのである。
ある夜、祈っていた時、「すべてのことを備えてください」という“祈り”の真の意味に気づかせてもらった。
私たちは、「備えてくださる(与えられる)もの」は、自分が生きていく上で必要な、“健康”、“食事”、“経済”や“出逢い”など、自分にとってプラスのものばかりを想像してしまう。
けれども、時に、天は、「私」にとってはまことに“不都合”に思えるものまで、与えてくださるのである。
あるときは、「なぜ、私がこんな目に」とまで思うような“不幸に思える出来事”まであるかもしれない。
それも、天からの「贈り物-ギフト」なのか?
多くの人は、「良いモノ」は、天からのもので、「悪いモノ」は、天とは違うところからのモノと思いたがる。
ぼくも、かつてはそう思っていた一人だった。
ぼくにも自分の「望み」とは、とうてい思えない出来事がたくさんあった。そして、それは今もときおり訪れる。
だが、時が経ち、振り返って見れば、とても重大な意味を持っていたことに気づく。
そのことが、自分からどれほどの「偏見」と「目の曇り」を取り除いてくれたことだろう、と。
人は、「自我」では拒否していても、「魂」が“試練”を望むことがある。
しかし、このことは、「人は転生を繰り返す」という“事実”を前にしなければ、本当には理解できない。
自分で、自分を浄め、より高めていくために、人間は、自ら望んで苦難を受け入れる。
何のために?
前世で犯した“過ち”や、“後悔した想い”を今生で「解決したい」ために-である。
西村久蔵さんのことを書かれた三浦綾子さんの『細川ガラシャ夫人』に、こんな下りがある。
細川ガラシャ夫人と呼ばれる前の細川玉子をキリスト教に導いた、付き人の清原佳代の言葉である。
不遇の身を嘆く玉子が、佳代に何を祈っているのかと尋ねると、彼女はこう答える。
「……もろもろのご苦難が、お方さまにとって、大きなご恩寵とお思い遊ばすことができますように、という祈りでございます」
けれども、その時の玉子には、苦難が恩寵などとは到底思えなかった……。
三浦綾子さんの一連の著作活動の原点に、「苦難が神の恩寵」であることを確認するかのような“想い”があるように感じる。
ふと、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』の中で灯台守が言ったことを思い出す。
「……何がさいわいかはわからないです。ほんとうにどんなつらいことでも、それが正しい道を進む中でのできごとなら、峠の上り下りも、みんな本当の幸福に近づく一足ずつですから」
「備えてくださる」ことの、なんと深いことか!
人には、その人に解決できない「問題」は訪れない。能力以上の出題はないのだ。
その人に、大きな試練が訪れた時、それを「恩寵-ギフト」として捉えることができるなら、その解決はきっと早くなるに違いない。