今週のお言葉 – 10

あなたの「言霊」が、あなたの「宇宙」を創り、あなたの「想念」があなたの「血液」を造る
つい先日、不慮の事故で死にかけてしまった。
直接の原因は、食中毒だったが、間接的な原因は、もっと別にあった。
「想念の毒素」による自己中毒である。
食べ物には日頃から気をつけていたつもりだった。できるかぎり無農薬・無化学肥料の野菜や玄米を食べ、肉などは自分から食べに行ったり、買ったりはしていなかった。
だから、体も健康だった。
けれども、それは突然に訪れた。
いや、正確には、予兆はあった。警告のような兆しは確かにあったのだ。
まず最初に、右の耳の中がただれるようになった。
最初は、よく泳ぎに行くスポーツクラブのプールの塩素によるものだと思っていた。けれども、一向によくならない。
ある日、「耳がただれているのは、自分の魂を汚す言葉や音を聞いているからだ」と悟った。
テレビをつければ、他人のスキャンダルや悲惨なニュースが流れてくる時代である。私たちは気がつかないうちに、悪い言霊や音霊を自分の中に取り入れてしまう。
そのことに気が付いたとき、「耳のただれ」はウソのように治っていた。
その次に起こった警告は、舌の付け根にデキモノができたことだった。
舌の付け根がずきずき痛む。最初は軽く口内炎でもできたのかと思っていたが、そんな部位にはできないらしい。
友人に話したら、舌ガンではないかと言う。
調べてみたら、舌ガンの症状と似ていた。
そのとき、ふと思い当たることがあった。
「良くない言霊を吐いたせいではないか?」と、思ったのだ。
理不尽に思うことに怒りにかられたり、憤ったりしたとき、確かに、良くない言葉を口にした覚えは多々あった。
言霊を制御することの大切さをさんざん本に書いてきた自分が、である。
……だからこそ、なったのかもしれなかった。
「ああ、そうか、悪い言霊を吐いたぞ、というお知らせだったのか……」
そう反省したとき、舌の付け根のデキモノは消えていた。
けれども、本当はもっと早くその時に気づくべきだったのだ。
これは「最後の警告」であったことを。
いくらその場で反省してみても、心底からの「改心」でないかぎり、それは結局、「その場かぎり」の反省でしかない。
そして、突然、その日がやってきた。
八年前、一酸化炭素中毒の事故で、ぼくは一度死んで蘇った。そして、八年後の同じ日、同じ時刻にそれは起きたのだ。
他の人には、意味のない日時でも、ぼくにとっては特別な意味を持つ日だった。
だから、「本当の原因」に気づくこともできたのだが……。
体中に毒素が回り、お腹が膨れて、尿がでなくなった。
両方の腎臓がパンパンに腫れた。
苦しくて何度も吐いた。でも、苦しみは増していくばかり。
友人たちが駆けつけてきてくれて、ぼくの様子を見て蒼白になった。
危ない!と思ったらしい。
友人たちは、ぼくの健康保険証を探し始めた。
ぼくは救急車を呼んでもらうべきかどうか迷っていた。
このまま病院に行ったら、手術をされるか、良くても、また人工透析のお世話になるしかない、今度そうなったら、外せるかどうか……、かつて人工透析をしていたときの苦労がよみがえった。
ぼくを助けてくれたのは、友人たちの手厚い「自然療法」による看護と、何人もの人の特別な深い祈りだった。
スギナの薬草エキスやビワの葉の温灸が毒素を出してくれた。焼いた塩やスギナの温湿布が、腫れた腎臓の痛みを和らげてくれた。
頭の下に敷いたキャベツの葉やホウレンソウが熱を吸って、みるみるしおれていった。頭に乗せた「豆腐パスタ」が毒と熱を吸って乾いて変色していった。このときほど、野菜のありがたさ、自然のありがたさが身にしみたことはなかった。
ぼくは出来る限り、世の中に良いものを提供していきたいと本心から思ってきたし、願っていた。努力もしてきたつもりだった。
しかし、ぼくは自分の心の深い部分の動きをチェックすることに手を抜いていたのかもしれない。
人間は、「言葉」に気をつけることはできる。
しかし、「想念」に気をつける「習慣」を持つことは難しい。
ちょっとした否定的な想いも、宇宙を汚していく。
それは、何よりもあなたの体を汚染する。
人の誠意の無さや世の中の不条理に対して、「真実」や「本当のこと」がなかなか伝わらないことに、何を書いても、何を叫んでも、何も変わらないのではないか?という無力感に、ぼくはどれほどの否定的な「想い」を知らず知らずの内に自分の中に膨らませていたことだろう。
そうして、「不平」や「不満」を自分の内側に取り込んでいったのだ。
そして、それは結局、自分に跳ね返ってきた。
エドガー・ケイシーは、「およそ人間の作る毒素の中で、想念の毒ほど恐ろしいものはない」と、言った。
想念の毒素は血液を汚し、詰まらせていく。血液とは、霊そのものだからだ。
だから、どんなに食べ物に気をつけていても、想念が健全でなければ、人は病気になってしまう。
特に、21世紀に入ってからは、それが顕著になってきた。中に隠れていたものが表面に現れる、水瓶座の時代に入ったことも大きな理由だ。
見渡せば、昨年あたりから今年にかけて、急に身体の変調をきたした人は、とても多いように思う。
21世紀が、日付の移動で渡れるものではないということをぼくは痛感した。地球のエネルギー(振動数)は、すでに変化している。
人間が新しい時代に耐えられるかどうかは、人の想念によって決まるのだろう。
キリスト教で言う、「罪人よ―」の意味が、今なら理解できる。人が天との通路を「詰まらせる」ことを「罪」と言ったのだ。
ぼくの病は、二週間かかって癒えていった。
苦しみの中で、友人と共に歌った賛美歌は、ぼくに安らぎと励ましを送ってくれた。
『~わが主イエス、わが主イエス、われを愛す』
唄いながらぼくは泣いた。
人間は決して一人で生きているのではない。
多くの人の「想い」の中で生きている。
あなたが死ねば悲しむ人たちがいる。
そして、何よりも「天の愛」に「生かされて」いる。
そのことを忘れてしまうことが、一番の「罪-詰まり」なのだ。
本当に自戒を含めて、「想念」に気をつけていきたい。
周囲には、たくさんの否定的な意識のエネルギーがうずまいている。
それに自分が巻き込まれないように気をつけなければいけない。
どんな時に「怒り」、どんな時に「無力感」に打ちのめされるのか、そのパターンを知り、「自分自身」をチェックしていきたい。
新世紀を本当に生きるために!