お告げ – 92

言葉の逆説「期待しないで、待ってます」
よく聞く言葉なんだけど、ふと考えると不思議な感じがしない?
「期待しない」ということは、「当てにしていない」、つまり自ら「手放している」ということでしょ。
でも、その後に続く「待ってます」というのは、「期待している」んだよね、やっぱり。それって、「執着」じゃない?
関西では、「当てにせんと、待ってますぅ」と半音下がるんだけどね。
紫の着物を粋に着こなした京都祇園あたりの芸鼓はんの口から、そんな言葉が出たら、「デートに誘ってええのん?」とドキマギするオヤジはいるんとちゃう?
まあ、正確には、「期待半分、あきらめ半分」の境地でしょうか?
手放しながら、掴んでる……? それも、「中庸」の一つ!?
人間って、いつも「自己矛盾」を抱えて生きているよね。
自分で、「夢」をあきらめたりしながら、根っこのところで、掴んで放さなかったり……。
「もうダメ!」って、言葉で言っているうちは、まだ大丈夫なようにね。
だから、「気が済む」という言葉や気持ちが、時に必要なんだろうね。
自分で、どこかで区切りを付けないと、いつまでも引きずってしまうから、と。
でも、実際には、「気が済む」までが、大変なんだよ。
簡単に、ちょちょっとやって、「ああ、ダメか……」と思えたら、苦労しないから。
一度試して「気が済む」人もいれば、何度も何度もトライして、それでも、まだ「気が済まない」人もいる。
結局は、自分で自分に「おりあい」をつけていることなんだろうね。でも、それが簡単にはいかないから、「自我が苦しむ」んだよ。
自分自身に「距離」を取るって、結構難しいから……。
「答え」はとうに知っていても、それを「認めてしまう」のが怖い……みたいな。
……自我と魂の関係みたい。
最後に幸福屋から一言。
大阪商人の「ぼちぼちでんなあ」なんかは、中庸的やと思いません?
「良くもなく、悪くもなく」。
人生も、ぼちぼちでんなあ、が一番良いのだろうけど、なかなか。
先日、横浜中華街の「萬珍楼」で、某出版社の編集長達に御馳走してもらったよ。途中で、二胡と楊琴と中国琵琶の生演奏があって、「ああ、今年の初めに、なんと贅沢な時間だろうよ」と、ふと思った。そのとき、全員が「期待もしない、待ってもいない」という予期しない気持ちだった。
人生は、待っていようと、いなくとも、「起こる」ときは起きる、と改めて思う。
それでも、今年は、みんな「変わる」年になると思うのだよ。
2008年 1月12日 地球の自転する音を微かにとらえながら……。