お告げ – 89

星降る夜に、星がおせーてくれました。魔ホーの言葉は、
ビビデ、バビ、デブー
先日、とある場所で、若い女の子達のこんな会話を耳にした。
「あたし、もうデブでいいの!」
「えっ、ほんとにデブでいいの?」
「うん、だって、デブだって、可愛い服いっぱいあるもの!」
「すごいね。アタシら、まだそんなにハジけられんわー」
ずっと以前に東京の五反田で、女子高生が「許せるデブと許せないデブがいるのよねー」と、のたまっていた記憶が、ふと蘇った。
ワシは、思わず「何があったんや!」と肩をゆさぶりたい衝動に駆られたが、そこはほれ大人だから、ぐっと我慢をした。
プロポーズと間違われたら困るからだ。
誰もが、ダイエットを目指したりする中で、「デブリン帝国」の元首たる存在を目指そうという心意気は、とてもあっぱれだと思う。
ミュージカル映画『ヘアスプレー』でも、「パパはママ一筋だよ。だって、パパの好みは、サイズ60インチ以上だから」という応援だってあるから。
(ワシは最初、クリストファー・ウオーケン扮するパパが、元ミス町のナントカというケバイ熟女ミッシェル・ファイファーの誘惑を退けたとき、いいぞ!と思ったが、その後の「サイズ60以上」というセリフに、もしかして、ただのデブ専? と美しい誤解を後悔したのであった)
確かに、可愛い服はいっぱいあるさ。今は、美に対する認識も100人いれば、100通りあるから、それでいいのだと思う。
けれど、自分なりの「美しさ」を追求した結果と、「あきらめ」から出た結論では、求める形が同じでも「違う」ように思う。
もしかしたら、「もう……でいいの」という言葉は、「努力する事」に疲れた心から出た言葉ではないのか?
だとしたら、どーなのよ? と、誰かがスゴミそうなんだけど、ならば、ワシは、「惜しい!」と思うのだ。
なぜなら、あなたは、突破者に限りなく近いのだから。
詩人が、歴史に垂直に立つ存在であるように、「あたし、もうデブでいいの」という言葉ほど、多くの迷える者たちを解放するセリフはあるまい。
まさに、人の海をかき分けて進むモーゼ!
いや、フランスを解放せしめたジャンヌ・ダルクか……。
そうなのよ。
もう、何だっていいのよ。
大事なのは、本質でしょ。
痩せているのが好みの人間もいれば、ポッチャリアンコ型が好みの人間だって、たくさんいるわよ。
問題は、自分の好きになった相手が、そのどちらかだということだけでしょう。
それも、一つの捕らわれ、「執着」よ。シューチャク!
胸がなくったって、ありすぎたって、頭が四角くたって、尖っていたって、人間じゃなくったって、そんな小さな事にこだわる自分が「イヤだわ!」。
オレ、今、そんな顔してない?
人は、自分が一つの価値観に捕らわれていると、相手もそうなのだと思ってしまうよ。
だから、自分を自分から「解放」できた時、本当の自由が始まるのさ。
それにね、誰もが一つの方向(価値観)を向いているとき、それに異を唱えるのは、とっても勇気がいることだけど、ものすごく大切な事だと思うよ。
盗んだバイクを買わされた15の夜に、一人、「誰にもしばられたくない」と叫んだように、あなたはあなたの未来を切り開くといい。
だって、今日は、すべての人が赦されたイブなのだから。
そろそろ、自分を「許してあげようよ」。
すべての過去の囚われから……。
最後に幸福屋から一言。
「きっと君は、来ない。一人だけのクリスマス・イブ、サイレントナイト」という山下達郎さんの歌があるよね。あれ、多くの人は、「失恋の悲しい歌」だと錯覚しているけど、ワシは、あれは、「ストーカー」の歌ではないかと疑ったことがあるよ。「きっと、君は来ないだろうなあ。けど、それでも待ちぶせしている俺」って。
オーコワ!女性でも男性でも、一人の人間に「執着」するのは、結局は自分を縛っているんだと思うよ。もっと、広く世の中を見ようよ!
今日、クリスマスの日に、あなたは何を願うのだろう。
ワシですか?ワシは、……神さま、どうか、今日の「幸福屋のお告げ」で貴重な女性の読者が一人も減りませんように。
2007年 12月25日 昼間っから、ビールを飲み、クリスマスソングをガンガン鳴らしながら。