お告げ – 87

バカにつける薬

昔から、「バカにつける薬」はない、という。
あれば、ぜひ買いたい、と思うのだが。
誰に飲ませるのか? 飲ませたい奴が多すぎて困ってしまうが、まず、自分が真っ先に飲んでみたい。
少しは、マシになるかいな、と。

「無意識のいたずら」って言葉、知っているかな?
 
……ある山で、キコリが夜、焚き火をして休んでいた。
そこへ、妖怪「サトリ」がやってきた。赤い一つ目が妖しく輝いている。
サトリは、人間の考えていることを見抜いてしまう妖怪である。
「おまえ、今、変な奴が来たな、と思ったろう」
キコリは考えていることを読まれて、恐れ、「ああ、こいつがサトリか……」と思う。
「そうだ。おれがサトリだ」
サトリは、そう答える。サトリは待っているのだ。キコリが恐怖で何も考えられなくなった時、食べてしまおうと。
その時、焚き火の中から弾けた火が、サトリの目に当たった。
「ギャッ!」と悲鳴をあげて、サトリは逃げ出した。
「……人間は恐ろしい。考えてもしないことをする……」


自分でも、思ってもいない「行動」を人の心は取ったりする。
ふとアキハバラに寄り道をしたくなったり、とっくの昔に忘れていたはずの人に電話をかけたくなったり、スーパーのタイムバーゲンに並んでみたり……。
後で、振り返って、「なんであんなことをしたんだろうか?」と戸惑う。

人間をエネルギーで観ると、肉体と“気”と呼ばれるオーラと意識の三様は、それぞれ別のエネルギーとして独立し、なお重なり、浸透し合っている。
それらが、スポーツ競技や仕事など、何か集中することがあると、一体化のように重なり、働くのだが、遊んでいたり、リラックスしていたりすると、意識は肉体から結構自由に遊離する。
たとえば、エレベータや電車を何気なく待っている時、ふと、誰かの事を思い出したりする。すると、意識は一瞬でその人の元に行ったり、その人と関連のある記憶の場所を訪れたりする。かつて誰かとデートした場所を通りかかったとき、連鎖反応的に思い出すのも同じである。肉体をスルっと抜け出して、夢遊病者のように彷徨うこともある。
たいていは、意識が離れても、0.000000何秒かするかしないかで、すぐに元の肉体の中に戻ってくるため、自分でもほとんど気づかない。でも、厳密に言えば、ある時間、その人は、そこに居なかったことになる。
「想い」は、届く、というのはそういう意味だ。

まあ、その「想い」が、挨拶程度に行くときもあれば、ストーカーのようにつきまとったりすることもある。
時折、なんとなく「匂い」や「気配」で、誰かを感じたりすることがあるよね。そんな時、相手の意識体が近くにいたりするのだよ。コワッ!
親が子どもの危険を察知したりするのも、親の想いが無意識の内にいつでも子どもの傍にいるからだけど……。

また、恋しているときは、相手を近くに感じても、それを「嬉しい」と感じたり、「安心」と感じたりするけど、嫌いな相手だと「うっとおしい」と思ってしまう。念の強い、弱いは関係ない。誰かを好きだったり、あるいは別れても執着していると、誰でもそうなる。
「生き霊」という言葉は、ホラー映画みたいで、おっかないけれど、「噂をすれば影」という言葉があるように、人の心は、自由に肉体から離れ、届いていく、その証拠でもある。

嫌われても、そばに行きたくなる、なんて、いやはや、人間はなんとも哀しい生き物だと思うネ。

SF映画の古典的名作『禁断の惑星 Forbidden Planet 』では、発達した惑星の科学力で消滅したはずの、人間の恐れ、闘争心が潜在意識に生き残っていて、それが「イドの怪物」となって、宇宙船のクルー達を次々と襲っていく。
人間は、どうしようもないバカだ! と言っている映画のようにも見える。戦争を繰り返し、克服できないから、言われても仕方がないが。
  
もちろん、無意識のコントロールはできる。
別に、何の体操も瞑想も秘術も必要ない。
外に向かう意識を、常に内側に向かうよう、習慣づけること。
たとえば、誰かの事を思い出す。
そのままだと、無意識が飛び出して行くだけだが、自制心を持って、「その人を思い出すのは、自分の何が欠けているからなのか?」とか、「執着するのは、自分の中の何が満たされていないからなのだろう? そして、それはいつから、どんなキッカケで生まれたのか?」と、原因を内側に求める癖をつけていく。
いつもいつも、「何で?」、「どんな意味を持つのか?」と考える癖を持つのだ。

そうすると、自分では制御できないはずの無意識も、一つの方向性に支配されていく。
それは、魂の進化として、結果的に自分を磨いていく。


最後に幸福屋から一言。
富山の薬売りの話では、「恋に効くクスリ」もないらしい。「お医者様でも、草津の湯でも……」って言うよね。。けれど、失恋に効くクスリはあるとか。新しい恋する対象を見つけたとき、失恋の痛手は薄れるから、と。
まあ、でも、恋した相手が、あまりに印象的だった場合は、そう簡単に「代わり」は見つけられないし、「他には、要らない」と思ったりするよね。
ワシも、経験あるから。で、ワシ流の一番のクスリはね、「自分磨き」かな。
今の自分を超えること、繰り返し超え続けること。そうすれば、「出逢った意味」ももっと深い意味でわかってくる。それが、恋からの卒業で、愛が始まるのさ。  
 

2007年 11月27日 アキハバラで買った○○○のフィギュアをうっとりと眺めながら。