お告げ – 85

自分で考えろ、バカ!

って、思わず言いたくなる時って、あるよね

「うーむむむむ……、不吉な……」
その老僧は、西の空を焦がす茜雲を見ながら、しわがれた声でつぶやいた。
「お師匠様、何か西の方角に、よからぬ気配でも、あるのでございますか?」
弟子の珍念が、ぼくとつに聞いた。日頃から、何でもかんでも、簡単に聞くでない。自分で考える癖をつけるのじゃ、と師匠から諭されていたからか、つとめて淡々とした声だった。しかし、好奇心がない、と言えばウソになる。顔にそう書いてあった。
「いや、先ほど食べたキノコ鍋な、あれに当たったかもしれん」
老僧が眉間にシワを寄せたまま、答えた。途端に、腹がキュルキュルキューと鳴った。


司会者 …………えーっと、何でしたっけ?
ああ、そうそう。
左脳と右脳のバランスが大事です、という京都のおばはんの話でしたね。
えっ? それは、前に話した? あっ、そうでしたか……。

えーっ、では、今日のラジオ講座は、「自分で考える、考えれば、考えるとき、考えなさいよ、たまには、考えろよ、しまいに怒るぞ!」のカ行五段活用による「脳の使い方」を講義していただきましょう。講師は、アキバ系のオタクこと、ドクトル・マコリーヌ先生です。
先生、よろしくお願いします。

D.マコリーヌ 「はあい、ジューテーム、ジュブザン、グリコプリッツ! ワタークシが、脳業改革のドクトル・マコリーヌ・ルイ13世でんがな。いいですか、皆さん。若いときの苦労は買ってでもしろ、というでしょ。苦労は、肥やしのようなもので、根を育てる、と。けれどねー。あんまり苦労しすぎると、性根が腐ってしまいますねん。これ、ほんま」
司会者 「(渡辺篤史調で)なるほど、サンゲツのカーテンのようなもの、と、いうわけですね」
D.マコリーヌ 「……? それとね、今のわっかい人も年っしよりも、みんな、テレビのクイズ番組で見てるの、問題、答え、問題、答えの連続でしょ。あれ、ゆっくりと自分で考える時間ないでしょ。しまいに、頭、くさるよー」
司会者 「……なるほど、ビリー・ザ・ブートキャンプの、入隊、除隊の繰り返しですね」
D.マコリーヌ 「ちょっと、違うっかなー。でも、まあ、いいや。むっかしはね、疑問があったら、自分で調べた。一家に必ず、“開かずの百科事典”とかあったでしょ。それで、自分で答えを見つける癖ついてた。けど、今、何でもかんでも簡単に誰でも教えてくれる。それで、思考する習慣つかなくなった。これ、アメリカ人の日本人アホ化作戦かもしれまへんで……」
司会者 「わかりますよ。天然酵母のパンだと発酵に時間がかかるけど、イースト菌だと短時間で発酵するということですね」
D.マコリーヌ 「うーん、近いような、遠いような……。まあ、いいね。大事なのは、自分で考える、と言うことは、自立の第一歩なんどす」
司会者 「と、いいますと?」
D.マコリーヌ 「ほら、すぐそうやって聞く。自分で考えるんでしょ。相手の意図とか、目的とか。日本には、昔から、“察する”という武士の一分みたいな感覚があったでしょ」
司会者 「なるほど。一を聞いて、十を知る、というやつですな」
D.マコリーヌ 「ええこと言うねー。そのとおりで、おま。そういう人は、一見、直感が鋭い人のように思われるけど、本当は、常に思索する姿勢でいる為に、推理的な思考から、相手の意向を読みとるんですよ」
司会者 「なるほど。では、現代人は、一を聞いても、十まで聞きたがる、と」
D.マコリーヌ 「それでも、まだ“わからないから、どうすれば良いのかおせーて”と聞いてくる」
司会者 「考えないから、自立できないのか。自立できていないから、考えられないのか。難しいところですね」
D.マコリーヌ 「だんだん、鋭い意見を言うようになったねー。右脳と左脳がバランスよく働いてきた証拠や」
司会者 「恐縮です。自分は、今まで、“考えるよりも、感じる方が大事”って、思ってきました。けれど、それは、常日頃、論理的に考えている人の為に、“考えすぎないように”と諭す言葉だったのですね」
D.マコリーヌ 「そう。四角い頭を丸くする、って、そういうことよ」
司会者 「一つのことに捕らわれると、それが、執着になって、考えるパターンも一定方向になってしまう。本来、クイズや謎々遊びは、そういう思考の定型化を防ぐために、思考を柔軟にするためにあったものなのに……。いつの間にか、“依存症”に。きっと、宇宙人の侵略に使われてしまったのですね」
D.マコリーヌ 「いや、そこまでは……。ただ、甘いもの食べる(白砂糖)と思考力低下するよー」
司会者 「なるほど、わかりました。“砂糖は脳に必要な栄養素でーす”と大言する、企業に飼われた御用学者の口車に乗ってはいかん、と。いや、それもこれも、どんなことでも、自分で考え、自分で判断しなきゃならん、ということですね」
D.マコリーヌ 「……鋭いなあー。あんさん、いったい誰どす?」
司会者 「いや、ほんの通りすがりの、“自我”でおます」


最後に幸福屋から一言。
昔、映画監督だった故・伊丹十三さんが、「現代人は、“自我”という病気に冒されている」と語られた。
マスコミ等の情報過多のために、自意識だけが増大して、“本当の自分自身”を見失ってしまっていることを嘆かれたのか。
自分で考える、とは、等身大の自分で生きる、ことのように思う。誰もが急に賢くなれるわけじゃない。けれども、その時、その時点で、精一杯自分で考えて、答えを見つけることの“尊さ”から、真の自立が始まるように思うんだけど。
  

2007年 10月26日 雲に隠れたけど、満月