お告げ – 83

どこまでも自分……
「私は、あなたを信じています。自分よりも信じているのです」
街中で、ときおり、そんな言葉が囁(ささや)かれる。
聞くたびに、「あーっ!」と、深いため息が出てしまう。
「信じる」という行為には、時に、「依存」が隠れていたりするから。
宗教は、「信じる心」が前提となっているが、はてさて、何を信じているのやら?
「自分を助けてくれる御利益」なのか、その教団の人なのか? それとも……。
いずれにせよ、「神」を自分の外に求めるかぎり、答えは、永遠に得られないと思うけど。
自分の意志の決定を人に委ねること、それを「信じる」ことだと錯覚している人は多い。
「信じる」行為は、一見美しい。でも、「自己責任」の放棄の危険性もある。
同じように、「あなたを信じた私がバカだった」と、人は、時に相手をなじるけれど、
その人は、何を観ていたのか? 自分の都合の良いように、相手を「観て、信じた」だけではないのか?
「そんな人だとは思わなかった!」と言われたら、
僕なんかは、「ゴメンねえー、そんな人ですよー」と言うことに決めている。
相手を正しく観ないで、自分の「観たい」ように見て、人を縛る人のなんと多いことか……。
そう、「信じる」と人が言うとき、その人は無意識に自分を縛り、相手を縛る。
それは、「依存」のごまかし。
相手の価値観に委ねるから、自分が見えなくなる。自分で自分を観ようとはしなくなる。
その視点で、自分は何に依存しているのかを観ていくと、自分の執着が見えてくる。
では、自分が、自分をどう見るのか?
自分を弱い人間と見れば、その人は、弱くなる 強い、あるいは強くなりたいと願ったとき、その人は強くなれる。
自分の足で立ちたい、自分の手で神さまに手を伸ばしたい、それが、真の「自立」だと思う。
そんな正論を言われても……と、言う?
いいえ、「どこまでも自分」でいよう、という強い決意。それなくして、本当の自立はあり得ないから。
「どこまでも自分」は、自己チューや「自我」の強さとダブるように感じるけれど、「自分を正しく観る」と、人も自分の都合では見なくなっていく。
そこには、依存と同時に、執着もないから。
最後に幸福屋から一言。
「♪一万年と二千年前から、愛してる~♪」
最近、そんなフレーズが、耳の奥にこびりついている。
あーっ、やっかいだ。何かのアニメの主題歌のコマーシャルだが、妙に「引っかかる」。
だいたい、12000年前から愛してる? ストーカーやん。執着でっせ、それ。
けれど、一概に否定しきれない自分が居る。
それは、自分は「何度生まれ変わっても、結局は、自分」という感覚だ。
変わり続ける自分もあれば、決して、変わらない自分がいる。
「どこまでも自分」……、人は、自分を守りながら、同時に、手放していかないとね。
「世間がどう観るか?」を気にする人は多いけれど、
僕は、「世間が僕をどう観るか? ではなく、自分が世間をどう観るか?」なんだと思っているのだよ。
なぜなら、「世の中」は、自分の外にではなく、自分の内側にあるから。
今回は、マジに言ってみた。
2007年 9月28日 晴れ。