お告げ – 82

現実逃避って、ラクなようで、ホンマは、ツライねん

「……良いかな。弦は張りつめすぎても、ゆるめすぎても、良い音は出ない。適度に絞ることで、美しい音色を奏でるのじゃ」
映画『リトル・ブッダ』に、お釈迦様になるシッダルタ皇子が、国を出て、バラモンの厳しい修行に身を投じるシーンが出てきますなあ。
けど、あまりの苦行に身体の限界を感じ、水を求めて、ネーランジャー川までふらふらとやって来るんですなあ。そこに通りすがりの少女、スジャータから牛の乳粥(じつは、豆乳やったとも云われています。論理的に考えると、修行で一切の食断ちをしていた人間に、動物性タンパク質を提供して、身体に更なる負担をかけるというのは疑問やわなあ)をもらって、休んでいたとき、川を渡っていく小舟の老楽士と弟子の会話を耳にするんですわ。そして、そのきっかけから仏陀として覚醒した彼は、「中庸(ちゅうよう)」を説くのですなあ。

いやあ、ええ話でんなあ。
人間、辛いことがあると、泣いたりしますわなあ。
けど、涙も枯れ果てて、もう泣く気力も無くなった時、脳の中で、脳内モルヒネと呼ばれる「β-エンドルフィン」が分泌され、「痛み」を和らげたりします。その時、左脳よりも右脳の方が働いて、論理的思考よりは、直感的思考に切り替えて、ピンチを脱出する「智恵」を導き出そうとしますねん。
まあ、これ「生きる智恵」ですわ。命の防衛本能ともいいますが。
それで、一種、ハジけるというか、開き直るというか、一時的に「ツライ現実」から逃避できて、救われたりしますねん。

けどなあ、あんまりそれが頻ぱんに起こりすぎると、いつの間にか、その脳内モルヒネでマヒした世界に留まろうとするようになります。

これ、怖いでっせ。
たとえば、誰かを好きになったりします。その相手が最初は自分に親切にしてくれたり、気持ちよく会話が続いたりすると、その状況は、映画の一場面のように、脳に「記録」されていきます。まあ、後で、見直そうと思って録画しておくようなもんです。
ところが、ある時から、恋愛としては成り立たなくなった時、片思いになった人は、その「ツライ現実」を直視できなくて、思考停止状態に陥ったりします。その時、脳内では、「痛み」を和らげる為に、脳内にエンドルフィンが多量に分泌され、なんとか、「解決」する道を模索しだします。
この時、脳は左脳の論理的思考よりは、右脳の直感的思考にスイッチされていますねん。
それでも、解決の道はなく、絶望しか選べないとき、脳は一時的に現実逃避として、「楽しかった想い出」を倉庫から取り出して、見せたりします。まあ、懐かしの上映会ですなあ。執着と言えば、執着の他なんでもないんですが、一時的避難としては、心を壊さないためにもエエンとちゃう? 的な逃げ道かな。
だから、昔から、失恋の解決法は、時間が経つか、他の相手を好きになるしかない、と云われるんですなあ。

けど、その人が、例えば、子どもの頃から、「ひどく傷つく現実」が多々あって、常に、自分の心を護るために、「現実逃避」をする癖が付いている場合、映画館から出てこないような状況になります。それどころか、「続き」を勝手に作っていく、自作自演の「幻想」の中で留まるようになるんですわ。ストーカーなんかもそういう心理ですわ。生き霊もね。
 
でも、現実の社会生活は、否応にも迫ってきますから、必要最低限の生活に必要な労力は残して置いて、後は、自分の「妄想」の中で暮らすようになるんですわ。そうなると、多重人格みたいに、人と話をしながら、同時に別の「違う」事を考えたりするようになるんですわ。その時、他人からは、ぼーっとしていたように見えます。だから、家族や友人から、「ちょっと、さっきから話聞いてるの?」と言われ、はっとして、「えっ?」と自分で驚いたりしてしまうんですなあ。
そうやって、他人とのコミュニケーションが取れなくなっていく……。

そういう人は、普段から、左脳があんまり働かんようになり、「論理的に思考」することが、とても苦手になっていきます。頭に、マクがかかったように感じるときが、それどす。
今、もしかして、自分のことと違うやろか? って、思った人は、ハイ手を挙げて。

それは、一種の「心の病い」とも言えますなあ。周囲はどんどん状況が変わっていくのに、自分は独り、「幻想の世界」、バーチャルリアリテイ(仮想現実)に取り残されていく。そうして、気が付いたら、それが自分の感覚なのか、それとも、現実に起こったことなのか? 区別が付かなくなっていくんですわ。
 
その現実から、二次的逃避が起こると、今度は自分は相手に「振り回されていた」と感情的になり、相手に攻撃的になったり、他人に、いかにも自分が犠牲者だったように泣きついたりします。あくまでも、「現実の自分」を受け入れることがツライんですなあ。
せやから、相手の悪口を聞いて、つい同情していると、相手から「とんでもない、傷ついたのはこっちの方ですわ」と告白され、余計ビックリしたりすることもあるんですなあ。
 
論理的思考も直感的思考も大事やけど、どっちも極端になると、あかんのとチャウかなあ? 中庸って、そういうことでしょ。
自分を主観的にも、客観的にも「見れる」ようになって初めて、「本当の自分」って何だろう? って、思えるんと違うかなあ? その時、同じように、相手も「正しく」見れるようになる、そう思うんですわ。
世の中見てますと、みんなあまりに、「自分自身」も「相手」もちゃんと見ていないように、思うのは、ワシだけでっしゃろか?


最後に、幸福屋から一言。
人を好きになるのは、美しいこと。それは、ホンマやと思います。
けれど、「好き」を超えて、「相手の幸せを祈る愛」、「見返りを求めない愛」にまで昇華できた時、その人は、自分自身を誇り、自分を本当に救うことになる、そう思うんですわ。
まあ、もっとも好きになった相手が、自分と同じ様なレベルの執着の持ち主やったら、ドロだらけですけどな。
どうせやったら、「愛」を知ってる人を、どーんと好きになんなはれ。
けど、それも、自分を「磨こう」とどこかで決意してへんと、出逢うこともできまへんけどなあ。

おーい、どっかに、自分と向き合うて、執着の原点まで見つけて、自分の感情を「愛」にまで高めた人、いてまへんか?
ワシ、どっかというと、そういう人と出逢いたいんねん、ホンマ。
 

2007/9/11 告