お告げ – 79

わかりやすーい「執着」と、わかりにくーい「執着」
なんやそれそれ、なんやそれ
……好きな相手を失いたくない、今の「しあわせ」を手放したくない!
それは、人間としての当たり前の感情だけど、人もモノも変化していく。
恋愛が、人との感情の関わりで生まれることならば、変化の先に無くなることだってあり得るよね。
自分の好きな人が、他の人を好きになってしまう。
そのことで傷つき、悲しむ。時には、その相手に嫉妬し、憎んでしまう。
そのとき、人は我知らず掴んだ、「執着」の中に居る。
きっと本人もどこかで自覚している、見えやすく、わかりやすーい執着。
ハイ、これ「基本形」です。
では、次、行ってみよう。
人は、時に、自分の方から離れたいと思っていたのに、相手に先を越されたことで意地になったりしてしまうことがある。
「執着」が形を変えて、見えにくくなっていますね。
「好き」とか、「愛してる」(『愛ダス』読んでくれたらわかるけど、いい加減、愛はすべてを解放する、って知ってほしい)って想いではなく、「許せない」とか、「恨んでやる」と憎むのも、また「執着」なんだな、これが。
たって、相手を「掴んでいる」もの。
また、「悲しみの記憶」も執着。って言うか、「記憶」はすぐに執着と結びつく。
人は、「忘れる」ことのできる生き物なのに。
前世なんて、本気で知ったら、みんな、きっとイヤになるよ。なんてこと! してしまったんだ! って。
まあ、これが、「応用編」ですかいな。
では、「わかりにくーい執着」をお教えしましょうか。
自分で選んだこと、と思っているモノや人が、誰かの価値観に影響を受けた結果の「行動」だったとしたら……。
好きな食べ物でも、服や映画の「好み」でも、人は、自分の好きな相手や信頼している人から、影響を受ける。
いや、進んで受け続ける。
それは、執着と言うより、「フィールド」と言った方がわかりやすいけれど、他人の価値観で「考え」、「判断し」、「行動」しているとき、自分は、何かに「掴まれ」、同時に、その何かを「掴んでいる」んだよ。
ちょっとわかりにくいかもしれないけれど、それが、見えにくーい「執着」の怖さかな。
だから、ハッとした時、「自分の人生を生きていない」ことに気づいたりする。
「自分らしさ」って、何だろう?って。
現代人の多くは、社会や周囲の人たちの「価値観」に掴まれ、その自分に意味もなく「執着」しているように、僕には見える。
さらに、自分で、自分を掴んでいる人は、とても多い。
わかっているつもりで、わかっていない。だから、変えようとしても、自分の何を変えていいのかがわからない。
手放せば、自分も解放され、「自由」になるのに。
『ソフィーの選択』の著者、ヨースティン・ゴルデルさんは、「たとえ自分の先生が言ったことでも、間違っている時は、それを正す勇気と思慮を持ちなさい」と言う。
「組長が黒い、と言うたら、白いモノでも黒なんや!」
という社会のなんと多いことか……。
僕が、自分自身を含め、「自立」を求め続けるのも、その「見えない執着」の危険性を知っているから……。
ねえ、あなたはどうだろうね。
「自由」かい?
最後に幸福屋から一言。
よく、古いお城なんかに行くと、頭に何本も矢を刺したオシャレな霊なんかが現れるけど、彼らはずっと昔の「記憶」に縛られている。やれ、誰それに恨みがあるとか、誰かに裏切られたとか。でも、その相手はとっくに死んでいて、その子孫だって絶えていたりする。
じゃあ、なんでまだそこに居るのか?
その恨みの対象が居なくなったまま、「掴んでいる」ことのなんと哀れなことか。
中には、神社なんかに祀られて、自分が遠い昔に宇宙から来たことを忘れている存在だっているとか。
だから、ぜーんぶ、「記憶」を消して、光に変えて、根こそぎ存在を消していくことにしました、とさ。
えっ! 誰が? さあー神さまとちゃいまっか。
ワシ、すぐ忘れるので、わかりまへん。
2007/7/25