お告げ – 70

幸福研究家-2
幸せの青い鳥を探して……
先日、頭の四角い友人から「私って、そんなに不幸そうに見えますゥ?」と聞かれた。
なんでも、「来年は、幸福になるんだよ!」とある人から言われとか、言われなかったとか。
それで、友人は、その人から見て、自分が「幸福そうに見えなかったのではないか」と思ったのだそうだ。
「じゃあ、聞くけど、幸福なの?」
「うーん、わからない。何が幸福かもわからないから……」
潤んだ瞳で見つめられて、どきどまぎしながら、ワシも思わず「んだナー」と答えてしまったのだが……。
幸せの価値観は、人によって違う。100人いれば、100通りの「幸福」がある。
だが、何より、幸福は「体感」であると思う。
他人の芝生は青く見えるように、時には、誰かの生活がうらやましく思えたりする。
「やさしい御主人、きれいなお家、庭には犬と子どもが遊んでいて……」
けれど、そのものがそのまま手に入るとしても、自分は「要らない」と感じてしまう自分がいたりする。
自分の思い描けるビジョンの幸福、だけど、そっくりでも、やはりどこかが違う。似ているだけのものなら、要らないのだ。
それだけ、幸福の「形」は似ていても、真実は「微妙」に違う。
では、いったい、どんなふうになれば、「幸福」だと感じられるのだろうか?
ワシは、幸福とは、「前年比」だと思っている。あるいは、「それまでの自分比」か。人からはわからない、けれど、本人だけは、「去年より幸せかな」と感じられた時、その人は「幸福」なのだ、と。
だから、「幸福になろうね」と言われたら、前年に対して、今までに対して、少しでもの「比」なのだと思えばいい。
しかし、問題はまだ残っている。
「幸福を感じられる感性」があるかどうかだ。
たとえば、前年比と言っても、どう違うのかもわからないと答える人は多い。
幸福への感性が鈍ってしまっているからだ。いつ、北斗神拳で秘孔を突かれたのか?
化学調味料の味になれてしまった人が、自然の安全な食べ物を「おいしくない」と感じたりするのも、「本当の味」を知らないからだ。
ホームレスだった、ある人は、「失ってみて初めてわかるんだよ。自分がこれまでいかに幸福だったかと」言う。
なるほど、そうかもしれないとも思う。
ならば、皆、一度失えばいいではないか、とはいかない。
できるなら、今のままで「幸福」に気づいて、もっと、なってほしい。
そのために必要なことは、「感謝すること」なんだと、じつは誰もが気づいてはいる。
だけど、多くの人が勘違いしているのは、「感謝する」とは、現状に「満足する」ことだと思っていることだ。
「止まっている」ことは、進化の道に沿わない。止まっていると変化もしない。
感謝は、むしろ進化と共にこそある。
失恋中だったり、失業中だったり、病気だったり、不幸まっさい中だったり。人にはいろいろある。
でも、今が、どんなに大変な状況であったとしても、そのことに感謝した時、変化は必ず訪れる。
それは、人の意識が、外よりも内側に向いた瞬間だからだ。
その時、人は知るのだ。
「力」は、外にではなく、内側に存在していたことを。
幸福の青い鳥が、すぐ近くに居たように。
そして、一番最初に言うべきは、自分自身に「ありがとう!」って言うこと。
「生きていて、ありがとう」と。
すると、虚空から、声が届いてくる。
「……生きていてくれて、ありがとう」
さあ、2007年イノシシ年、あなたは、「前年度」より幸福になっているだろうか! あなたの幸せな明日はどっちだ?
最後に幸福屋から一言。
今年もいろいろありすぎました。別れも出逢いもありましたわいな。それでも、なんとか生きています。来年もよろしゅうお願いします。
さあて、今夜は格闘技見てから、3000年に一度のお雑煮でも作ろうかなっと。