お告げ – 69

依存研究家
医者よ、汝自身を癒せ
ヒポクラテス
救世主伝説「北斗の拳」がまた流行っているという。パチンコの影響らしいが。
暗殺拳、北斗神拳を使うケンシロウが相手の秘孔を突いて、「おまえはもう死んでいる」と言うと、打たれた相手は、「アベシ!」と叫んで、倒れていく。
昔、友人だった藤田昌幸さんというCMプランナーが、読売テレビのバラエティ番組『なげやり倶楽部』で作った、「おまえはもう死んでいるから」というコントがある。
二人の北斗神拳の使い手が出逢い、アチョー、ワチョーと戦う。「おまえはもう死んでいる」と一人が言うと、「死んでいると言ったものが、すでに死んでいるのだよ」ともう一人がやり返すのである。そして、「死んでいると言ったものが、すでに死んでいる、と言った者が、すでに死んでいるのさ」と互いに言い合っていくコントだった。演じたのは、竹中直人さんと、中村ゆうじさんだったと記憶しているが。
「死」が軽くなってしまった時代のように思えて、哀しい。
武士道の「葉隠れ」には、「武士道とは死ぬことと見つけたり」とあるが、それは、転じて、「どう生きるべきか?」という問いかけでもあった。
命の尊厳を守れるのは、じつは自分自身に他ならない。なのに、多くの人は、簡単に自分の命を他人に預けてしまう。
「どう生きるべきか」が確立していないから、「どう死ぬべきか」も追求されきらないように思うのだが。
落語の中に、「寿命医者」という言葉がある。
やってきた患者が助かると、「どうです!」と威張り、亡くなると「あっ、これは寿命でしたな」と決まり文句のように言う医者のことらしい。
現代医療でも、麻酔の投与の失敗や、病状の診断ミス、薬の間違いなど、医療ミスは以前よりも増えているという。それでも、皆、不安になりながらも、病院通いを止めようとはしない。テレビなどで、「良い医者、助かる病院はここだ!」と企画して、宣伝しても、人はわざわざ医療ミスの起きた病院を選んで、行く。信じられないことだが。
いったい、この「盲信」はなんなのだ? と思う。保険が利くから、と言っても、医療の自己負担は増加し続けている。ガンなどで入院すれば、何百万もかかる。保険に入っていても、今度は、なかなか払い込まれない、という現象も起きている。
以前、国立市で開業されている天才鍼灸医のK先生が、「みんな医者に見放されたり、スプーンを投げられてから、うちに来るんだものなあ、もっと早くに来てくれたら、もっとなんとかなるのになあ……」とこぼされていた事があった。
ワシには、その気持ちはよーくわかる。
病院に行って、センセイの言うとおりに手術をし、薬を飲み、それでも、ガンが再発して、もう切る所が無くなって、「どうしたら、治りますか?」と言って来る人のなんと多いことか。
そんな人は、たいてい、まだ病院に未練を持っていて、他の病院を当たれるだけ当たる。けれども、現代医学は、医者の善し悪しはあるものの、たいてい、技術的なレベルは天と地ほども違わないから、出来る対処法は少ない。
それで、仕方なく、たとえば、鍼灸や整体などの民間医療や、自然食療法、に頼る。時には、気巧法や瞑想法、ヨガ、アロマ療法やホメオパシーなどに出会う人もいる。
ところが、本人以外は懐疑的だったりする。時には、家族が見つけてきても本人が疑っている事の方が多いが。それで、「親戚や家族が納得するような科学的な証拠を見せて欲しい」とか、「責任取ってくれますか?」と言ってきたりするらしい。
先日も、あるヒーリング施術者の所に来た人が、「親戚から、インチキだからと言われた。何か、物的証明がないでしょうか?」と相談されたという。
ワシは、黙って聞いていて、ふと疑問に思ったのでこう言った。
「その方は、これまで、お医者さんの言うとおりに手術をして、何年も薬を飲んで、食事法なども、忠実に実行してきたんだよね。それでも、ガンが再発して、もう抗ガン剤も効きませんと、お医者様に言われたんでしょう。ねえ、その方の家族や親戚は、その医者や病院を訴えたり、文句を言ったのかな? 何年も言ったとおりにしてきて、治らなかったのに、それでも、ありがとうございました、とお礼は言うけれど、文句は言わない、それって凄いと思わない。なのに、あなたに責任を持って欲しいなんて、とんでもない話だよね。その人の生き方とか、これまでの経過も知らないのに、どうして、責任なんか持てるんだろう。第一、科学的って言うけれど、現代医学ほど科学的なものはないと思うよ……」
大分の自然循環農法の完成者、赤峰勝人さんもよう言わはった。「自動車を修理に出して、治らなかったら皆、文句言うのに、病院には文句言わないものね」と。
「ワラにもすがりたい気持ち」は、理解できる。病院や医者が、その時点で出来るベストの解決策を選んだのだとも思う。だから、本当は、誰にも責任はないのかもしれない。それでも、もし、責任があるとすれば、その治療法を選んできて、信じた、「その人」なのだと思う。きつい言い方に聞こえるかもしれないが。
なぜなら、誰のものでもない自分の身体である。
何が一番のベストかは、徹底的に調べても良いのではないか?
口コミもある。本にも出ている。コンピュータで調べれば、他の解決策も見つかるかも知れない。ワシも母親が脳動脈瑠になったとき、医者から早く手術をすることをお奨めします、と言われて、「ほな、頼みましょうか」と言いそうになる母親を抑えて、「考えてからお返事します」といったん帰り、コンピュータで調べたら、日本と欧米の医療現場での考え方が全然違うこと、破裂する危険性よりも、手術する危険性の方がまだ高いこと、友人の叔父さんが簡単な手術ですからと言われて行い、二年間も入院したあげく、出てきた時には、半身不随になっていたこと等の知識を得て、結果として、「玄米菜食で治していきます」(Body Lightening で治ってしまったが)と手術を断ったのだよ。
「病気」になっても、現代は、選択肢は昔よりは多くなっている。
また、「病気」そのものに対する考え方も幾つもある。
そのどれを選んで実行するかは、やはり、本人の責任だと思う。
病院で治そうとするのもよし、民間療法を選ぶのもよし、病気と向かい合って、思考していくのもよし、ヒーリングの門を片っ端から叩いていくのも一つの方法なのだと思う。
ただ、どれを選んでも、「依存」が前提では、本当の解決は出来ないように思う。
インドには、運ばれてきた患者に、「西洋医学で治したいか、アユルベーダで治したいか」と聞く病院もあるという。
これからは、病人に「自立」できる環境を提供する、または、選択肢を拡大するのも病院のサービスの一つだと思う。
そして、ヒーリングに携わる人たちは、「責任」など受けないようにすることも、生き延びていく知恵だと思う。
最後に幸福屋から一言。
今回、病気をテーマにしたのは、もっとも「依存」がわかりやすいと思うからだが、生活の中には隠れている「依存」も多い。「肩書き信仰」なんかもその一つだと思う。
病院を選んだ時点で、医者から「おまえはもう死んでいる」と宣告されないようにしたいニャー。
★Body Lightening を会員制にしたいと思ったのは、「施術する人」と「受ける人」は対等であるべきだと考えたからです。病気は、その人が作ったもの。ならば、治せるのもその人だけ。Body Lighteningは、そのお手伝いに過ぎないのだと、自他共に認め、自覚していくためなのですが。