お告げ – 67

孤独研究家
SF作家レイ・ブラッドベリに『霧笛』という珠玉の短編がある。
ある島に赴任してきた若い灯台守が経験したお話……。
灯台から付近を通る船舶へ鳴らす岩礁警戒音の霧笛を、自分の仲間の呼び声だと信じて、遙か海底からやって来る哀しい生き物の話である。
……それは、前世紀に滅びたはずの恐竜だった。もう、この世には自分の他には誰もいない、そうあきらめて海底で眠っていた恐竜だったが、ときおり遠くから微かに聞こえてくる霧笛の音に、もしかすると、まだ仲間がどこかに生きていて、自分を呼んでいるのではないか? と思ってしまうのだった。
その恐竜は、すでに年老いていて、もどかしげな足を海底の泥に捕らわれながら、ゆっくりと泳いで、暗い海の底から何ヶ月もかけて灯台までやって来るのである。しかし、彼を待ち受けていたのは、残酷な運命だった。無機質な白い灯台は、当然、彼の呼びかけには答えない。彼は、悲しみと怒りで、その灯台を壊してしまうのだった……。
そして、彼は再び冥い海に消えていった。
孤独を恐れる人は多い。
自分が世界から切り離されたように感じるからだ。
誰にも理解されない、または、理解できない存在として、「ある」ことが耐えられない。
「人はどんな時に孤独を感じるか?」
アメリカの大学で行われた、ビジネスにおける孤独感の調査で、日本人は人と自分の意見や考え方が違った時に孤独を感じ、アメリカ人は、人と同じ意見や考え方をしてしまったときに孤独を感じるという結果が出たという。
そして、一様に、孤独感に恐怖するという。
しかし、孤独こそは、魂の磨き場だと考えている僕なら、こう答える。
「これは絶対受ける! と神にも似た確信を持っていたギャグが人前ですべってしまった時、孤独を感じる……」と。
昔、出版社に勤めていた僕の友人は、残業をして家に帰ってきて、独りで夕食をかきこんでいた時、それをじっと見ていた母親から、「孤独の中で己の個性をうち立てて生きていくのよ」と、突然励まされたという。母親の目には、友人の将来が不憫に思えたのかも知れないが。
孤独が辛いのは、人が、自分自身と向き合わなければならないからだ。
そこには、脆弱な自分、臆病な自分、卑怯な自分、ウソつきな自分が隠れていたりする。
「どうせ自分は自己チューですから」と開き直っていても、ウソ、こんなにぃ! と思うほどの情けない自分を見せつけられると、たいていはイヤになる。
これでは自分は、とても「救われない」とがっかりしてしまう。
しかし、まだその奥があるのだ。
自己嫌悪する自分と向き合い続けるうちに、それは、「快感」に変わっていき……、いや、そうではなく、自分とは何者なのだろう? と問いが生まれる。そして……、
ギリシャ神話で「パンドラの箱」の中から、あらゆる災厄が出てきても、最後に「希望」が残っていたように、自分の内側の奥に、何者にも決して負けない「強い光」が確かに存在していることに気づくのだ。
そのとき、人は、「孤独」の真の意味を知る。
外に求めるのではない、内にこそ、あらゆる答えがあるのだと……。
孤独を感じたとき、人は、じつは無限の英知の扉の前にいる。
けれど、多くの人は、その扉を開けることをためらって、逃げ出そうとする。
自分の周りの世界との決別を意味することをどこかで、知っているからだ。
だが、周囲の世界との隔絶は、同時に、神との通路が開かれることでもある。
神との、無限の愛との連結は、すべての記憶を癒し、生まれてきた意味を思い出させてくれる。
自分がなぜ、ここにいるのかを。
「孤独」は、宇宙が私たちに用意してくれた、「進化の鍵」なのかもしれない。
ああ、ブラッドベリの恐竜は、今は、海底で美しい夢を見ているだろうか……。
最後に幸福屋から一言。
大阪人と名古屋人と東京モンの中で、もっとも孤独に強いのは、さて誰でしょう?
答えは、……東北人です。なぜか? 寒さに強いから!