お告げ – 64

夢研究家

「たら」は北海道の魚 

昔、父親によく「たら」は北海道の魚だとからかわれた。
それは、僕が、不言実行の子どもではなかったからだ。
 
いつも、口癖のように「こうなったら……」と言っていたような気がする。
「成績が上がったら」、「クラスで一番になったら」、「運動会で一位になったら」、何々を買ってくれ! と。
すると、父親は「なってから言え、なってから」と言うのだった。
でも、結局、自分の言う「なったら」が実現したことは一度もなかったように思う。
  
だから、今でも、「この本が売れたら」とつい思ってしまう自分がいるのか、と思う。

人は、誰でも希望を持ったり、夢を見る。
それは、とても良いことであり、宇宙の進化にもかなう。
なぜなら、何かの「変化」を求めることは、閉じていない「進化」の現れでもあるからだ。

しかし、多くの人は、希望や夢の実現をつい「期待」してしまう。
宝クジを買うと、たいていは「当たったら、何に使おう」と、当たりもしない内から、どう使うかの予定を立てたりするのに似ている。
「期待してなぜいけない?」と思われる人もいるだろう。
期待が大きいと、外れたときの失望も大きいからだ。
希望を持ったら、期待せずに、ただ夢を見続けることが大切なのだ。
ただ、それがいかに難しいことか!

夢をビジュアライゼーションして、実際になっているかのようにイメージすることが大事だと説く人もいる。
確かに、イメージを強烈に持ち、それをより細かく描いていくことで、エネルギーの鋳型を作り、それを実現へと導いていくことはできる。
ボディビルダーが自分の肉体を鏡に映し、「ここの筋肉をこうしたら」と意識でデザインして、実際に身体を作り上げていくのも同じである。

しかし、いくら細かいイメージまで作れても、誰もが、夢を実現させているわけではない、それも事実である。

では、どう違うのか?
プロセスはきっと同じなのだ。
「自分がこうありたい」と願う形を強くイメージにして焼き付け、そこに向かって努力していく。
その努力の中には、「学んだり」「習ったり」「始めたり」と、それまでの自分には無かった技術や知識を必要とするモノもあるだろう。

現実は、具体性のない夢想からは生まれない。具体性があっても、努力しないと前には進まない。
夢が「現実」を引っ張っていくのだ。
自分を前に進ませる力、それが夢なのだと思う。

「こうなったら、いいなあ」とは誰もが思う。
でも、そうなる前には、たいてい、ボロボロに夢やぶれて挫折する経験が待っている。
それを越えて、なお信じ続けられるかどうか、その一点にかかっているのだと思う。

ケガが治る時も、血が固まって、かさぶたができ、ピンク色の薄い皮膚が再生して、始めて傷が治っていく。
どんなヒーリングも、目の前で傷が塞がり、何事もなかったかのように、皮膚が元通りになったりはしない。
一つ一つの段階を無視しして、「成る」ものは何もない。

  
だから、「夢」は甘いモノではなく、時には、残酷だとさえ思う。叶わなければ、呪いのようになって自分を責め続ける。
「夢は、実現されなければならない」
しかし、誰にも同じ夢が降りてくるわけでもない。
その人に降りてくる夢は、その人に降りかかってくる災難や苦難と同じように、その人になら、越えられる、いや、実現できるのだ。
ならば、こうも言える。
「夢は、最初から実現される宿命を持っている」と。
 
過ぎてしまった10年はあっという間だけど、これから待ちかまえている10年は遠い。
されば、夢を持つ人よ。
挫折しても、「もうダメだ!」と思っても、決して、あきらめるな! 何度、挫けてもいいから、いくら失敗してもいいから。
あきらめなければ、必ず道が開ける。どんなに可能性が無くても、あきらめずに努力していたら、何かの形が生まれる。
逆にどれほどの才能が在っても、信じなければ、何もしなければ何も生まれない。

最後に幸福屋から一言。
タラでだめなら、「こうしタイ」は、どうでっしゃろなあ? 鯛は魚の王様ですから。
あっ、やっぱり、餌も付けずに、釣り糸を垂らしていても、あきまへんか。