お告げ – 58

御縁研究家
……チクワを輪切りにして油で揚げるだけなのに、なんであんなにうまいのだろう?
ワシが、世の中を裏から操っているように見える「御縁」を研究し始めたのは、その事をふと考えたことがきっかけだった。
恋愛も仕事も、人生も一つの出逢いと別れの繰り返しのような気がする。
自分の希望する会社に就職できたのに、そこで辛い目に遭う。
好きな人と恋愛をしても、結局は傷ついて別れてしまう。
幸せになりたいと願ったはずなのに、なんでこんな事に……。
では、最初からわかっていたら、その道に進まなかったか? と言うと、きっとそうでもないように思う。
なんとか、危機を回避できないかと考えるに違いないからだ。
だから、それは、「そうなる」事が御縁だったのかもしれない。
御縁は、一方的なものではない。どちらかが引っ張ったにせよ、互いに「因」と「果」がなければ、引き合うことはないのだ。
では、離れるのも御縁なのか? と、恋愛に執着している人は聞きたいに違いない(ウムウム、気持ちはよーくわかる)。
確かに、離れるのも一方的に見えて、互いに、離れるだけの因子があるのだ。
ただ、離れても、御縁が続いている限り、また、「新たに出逢う」因子は生まれたりする。
それは、離れたように見える 状態にすぎない。
そのことは、「光の手」(河出書房新社)にも書かれている。
肉体的、あるいは精神的な関係を持っていた二人が離れると、離れてもしばらくはオーラがヘソの緒のように相手と繋がっている。
だから、なんとなく相手の事を考えたりしてしまう。逆に言うと、相手のことを考えている時は、相手も自分の事を考えたりしている。
本人が自覚していなくとも。
そして、御縁が本当にそこまでなら、時間の経過と共に繋がったヒモも完全に切れてしまう、そうなると、互いに相手の事を思い出さなくなる。
昔から、「失恋は、時間だけが癒してくれる」というのは、そのためだ。
また、新しい恋人ができたりすると、その相手との間に新しい繋がりが生まれ、以前のより強くなるから、前のが自然に消滅していく。
「失恋を克服する方法は、新しく恋をすること」というのも頷ける。
しかし、「御縁」はそれだけでは解明できない。
とっくの昔に切れたと互いに思っている相手でも、くすぶり続ける炭火のように、再開する機会を待っていることもある。
それを「執着」だとは一言で言えない。
別れることで、時間の経過と共に、相手が自分にとって何であったのか? 時には、本当の愛に気づける場合もある。
そんなとき、御縁は、再び動き出すこともあるようだ。
なぜなら、今生で出逢っているように見えて、以前から、場合によっては、転生の度に何度も出逢い、惹かれ逢っていた相手かもしれないからだ。
ただ、それは、互いに相手からの「何かを学ぶ」、また、「相手と共に作り上げる」ものが未完になっているからとも言えるが。
今、そこにいるのも御縁ならば、居なくなるのも御縁、である。
再会するのも御縁ならば、本当に離れてしまうのも御縁である。
できれば、いつも客観的に自分を見ていられると良いけれど。
最後に、幸福屋から一言。
先日、公園でタコヤキを売っている、この道40年というオッチャンから貴重なお話を聞いた。
「タコヤキをくるくるっとこうひっくり返すでしょう。わし、その時にな、ああー、人生はこういうもんやなー、と思うんですわ。外はカリカリに焼けとるけど、中身は、トロトロや。そいで、ほふほふの熱々や。なっ、どやっ、人生やろ!」
ありがたーいお言葉に、ワシはただ合掌するしかなかったが。