お告げ – 49

恋愛研究家Ⅱ

【シーン35】
……夕暮れの街。雪が降っている。
ふるふると舞うように、綿毛のような雪が降っている。
その中を一組の男女が寄り添いながら歩いてくる。
手はさりげなく触れるように絡めて、それとなくあたりに気を遣いながら歩いてくる。
何かワケアリなご様子。
クリスマスセールのイルミネーションに飾られた町の光がショーウィンドウに反射して二人の顔を照らし出す。
女の顔アップ。
睫毛の長い黒髪の美しい女性。淡く上気した顔が、これからの夜を物語るように……。
男の顔アップ。
中年の渋さがようやく馴染んできた頃合いか。ちょっとレトロなダークレッドのトレンチがよく似合っている。短く刈り上げた髪の毛に、無造作に巻いたカシミアのマフラー。
女が聞いた。
「ねえ、あたいの事、好き?」
「うん、好きだよ」
男がバリトンで答える。
「どのくらい?」
手を広げるように。
「えーとね。このくらい」
「ううん、それじゃあ、わかんないわ。じゃあ、セブンイレブンのオデンとあたいとどっちが好き?」
「……難しいな。チクワとダイコンとコンニャクを除けば、君の方が好きだよ」 
「ほんとぉ!うれピー」
…………。

クリスマスが近くなると、町に腕を組んで歩く恋人たちの姿が、飾り付けのイルミネーションに映えて、皆、映画の主人公のように変わる。
善男善女のほほえましい姿。けれども、中にはこんなアホな会話を交わしているカップルだっているにちがいない。
ワシは、昔、ファミリーレストランで一人寂しいクリスマスを過ごしていて、外を歩いている恋人たちの「一人吹き替え」をして楽しんだことがある。
それは、昔やった、ある仕事から思いついたもので、SF映画の吹き替えを勝手にムチャクチャな会話でするやつだった。例えば、宇宙船が地球に攻めてきて、中から宇宙人が現れる。その宇宙人がしゃべる吹き替えを「ピップエレキバン! ……あっ、およびでない、およびで、ない!?」と吹き替えるのだ。地上では、軍隊の偉いさんが部下に号令をかけている。「おのおの方、ご油断めされるな!」
とてもおもしろい仕事だった。けれども、なぜか途中でボツになり、ギャラも入らずじまいに終わった。


恋は、苦手だと前に書いた。
それは、いろいろな理由があるが、一言で言うと「ややこしい」からだ。
例えば、「好き」という感情一つとっても、「自分が好き」なのと、「相手が自分を好き」なのとは、いつも互いに微妙に食い違っているように思う。
「ワシはおまんのことが大好きじゃけんのう」
と言っても、その「好き」は、広島のお好み焼きよりは「好き」な程度なのかも知れない。
彼女の方から、「誰よりも貴方が一番好き」と告白されて喜んでいても、もしかしたら、その彼女には、他に好きな人が一人もいなかったりする。

だから、多くの恋人達は、「自分が相手をどのくらい好き」なのか、いつも自問自答し、相手からも、「自分をどのくらい好きなのか」を求め続ける。
それが、「恋」と言えば、恋なのだろうが、ふと、シラフの自分に戻ったりするとき、「自分は何やってんだか?!」 と冷めてしまったりする。その「冷める」目覚まし時計のような機能が、人によってこれも互い違いに働いたりする。
それが、無意識に繰り返されると「倦怠期」となる。

きっと、「恋」は、美しい「錯覚」の連続なのかも知れない。
街角から流れてくるポップスも、まるで自分の事を唱っているかのように聞こえたり、本を読んでも、自分のために書かれたものではないか? と思いこむ。それは、時には、似たような体験をしたすべての人のために作られたり、書かれたりしたものかもしれないが、全然見当違いだったりすることもある。

けれど、そんなすべての「愚かしい体験」も「ない」よりはましかもしれない、とも思う。
人を「好き」になるのは、ものすごいエネルギーを消費するからだ。そういう「情熱」は、まず健康(身体とか、心とか)でなければ持てないし、何より「相手」に巡り会えなければ始まらない。だが、そう簡単に誰をも「好き」になれるわけではない。「ああ、いい人だなあ」と、思っても、自分の身も心も許してもいいと思える相手には、なかなか出逢えなかったりする。だから、多くの人は「出逢い」を求めて、合コンをしたり、お見合いクラブに入会したりするのだ。

そういう意味では、今、恋をしている人は、それがどれほど「苦しい恋」だとしても、そのことで、ものすごく自分の身も心も傷ついてボロボロになっていたとしても、本当に「無い」よりは、ましなのだ。だがしかあし、やっぱり「苦しい恋」は、疲れるぜ。

もともと、「恋」は、その人自身のハイアーセルフ(守護霊ではなく、より高い自己、自分の本体-Spirit)の働きが関与している。
その人と出逢い、恋愛することで(相思相愛にならなければということでもない。時にはずっと片思いのこともある)、「学ぶ」何かがあるのだ。時には、自分の「自己チュー」に気づかされ、それを修正することだったり、相手のイヤな面と出逢って、自分にも「似たようなもの」があるのではないか、と反省したり。あるいは、互いに良い処を伸ばしあったりして、自己を研鑽していく。それが、ハイアーセルフの真の狙いだったりする。

かくして、恋は、その人をもっとも「変化」させる、きっかけとなる。

 
ああ、今日も多くの恋が町に生まれ、町に消えていく。
あなたとワシの、明日はどっちだぁぁぁぁ!

 
最後に幸福屋から一言。
「恋」について書いたりすると、それこそ、「あたいの事を言っているのか!」と抗議のお手紙やメールが来たりしますが、それも「錯覚」です。
恋する乙女は、自意識過剰。恋する男も自意識過剰。ああ、くわばら、クワバラ……。怨霊退散!!!