お告げ – 42

大人になるって、どういうこと?    


「1000のコラムを持つ男、ミル・コラムラス」のフレーズが異様に気に入ってしまったワシです。じつは、1000のコラムを持つ男Ⅱに続いて、「1000のコラムを持つ男999」まで続けてやろうと思ったのだけれど、きっと、「新手のいやがらせかい!」と言われてしまいそうなので、やめました。「えっ?、本当は、ネタに詰まったのだろう」って? ああ、その通りだよ。ホントにゴメンよ!
 
じつは、先日、屋久島フレンドのSさんとTさんに逢いました。Sさんが2ケ月ぶりにマレーシアから帰って来られて、またそのまま9月にはインドに行ってしまうというので、久しぶりの再会を果たした、というわけなのです。ええ、あの白谷雲水峡の「もののけ姫の森」に一人たたずみ、「このシダ、たまらんなあ」と、ニタニタしていた森林フェチのSさんです。Tさんの方は、なんと介護士の道に入ろうとされているところでした。あの、屋久島ランドの河原に座って、石をいじくりまわしていた岩石フェチのTさん(ワシの知り合いって、いったい……)が、です。私は、Tさんはてっきり地質調査のある不動産開発の会社にでもお勤めになるのだと思っておりましたが。

再会の場所は新宿の某沖縄料理のお店でした。
沖縄と言えば、当然、古酒(クースー)や泡盛です。最初の一杯は、携帯でクーポンをゲットしたら「無料」というので選んだお店でした。ええ、もちろん。一番高いお酒にしました。
で、互いにカンパーイをしながら、近況を報告し合ったのですが、ふと、森をどうしたら守れるのだろうというお話から、Sさんの仕事の話になりました。じつは、Sさんが、森林保護のNGOで働いていること、給料が異様に安いこと(ほっとけ!)、等は知っておったのですが、その仕事の中身はぜーんぜん知りませんでした。
話を聞いて、しかも、パソコンを取り出しての「紙芝居」、いや電脳芝居か? のようなプレゼンテーションにただ唖然。Sさんのしてこられたのは、東南アジアの子どもたちと一緒になって植林をしていき、子どもたちに「植物の大切さ、植林の大切さ」を教えている仕事なのでした。写真には、小さな子どもたちが植物の苗を土に埋めている処やSさんたちが仲間と一緒に土を耕している場面が写っておりました。
子どもたちは、自分が学校を卒業するまで、毎日、植えた木の所に見に来たりして、世話をするそうです。だいたい12年ほどで、いっぱしの森のようになるのだとか。それでも、伐採で失われていく森林のスピードに比べると、ウサギとカメの競争のようなものなんですと、しんみり。
写真には、切り出された木がトラックで大量に運ばれていく処も写っていました。しかも、その行き先の多くが、私たちの国、日本なのですから……。
木材資源を大量に消費する国からやって来た、植林のボランティア。その構図は、私にも複雑な想いとして映りました。
そんな想いから書かれた美しい一片のコラム「木霊」は、『本当の自分を見つける方法』(扶桑社)の中に書きましたので、どこかで見てくれたら嬉しいな、と、ちょっと宣伝。
それでも、ワシとTさんは、「すごいよ! そんなに素敵な仕事をしていたなんて、知らなかったよ。ただの森林オタクじゃなかったんだネ! 」と、パチパチ。ワシは軽口を叩きながらも、「龍馬よ、日本の未来は、まだ捨てたものではないかもしれんのう……」と、秘かに感動しておりました。

で、Tさんです。ワシが、「どうして、介護士の道を選んだの?」と聞きますと、「いや、選んだというより、まあ、実際にはどうなるかはわからないけれど、とりあえずやってみようかな、と思ったので……」と、Tさん。それも、障害を持ったりして、動けない老人の介護を目指すのだと言うのです。ワシは、「まあ、とりあえず」で選ぶコースではないな、と想いながらも、Tさんの中にきっと息づいているであろう、彼女が三年間を過ごしたという石垣島の息吹のようなもの、……自然と巫女と、人々から尊敬される老人たちの調和した世界、そんなものの気配を感じておりました。
先住民の社会では、老人は「お荷物」などでは決してなく、経験豊かな知者として尊敬され、大事にされてきました。昔の日本の長屋でも、老人はみんなで世話してきたものでした。
数年前に訪れた中国でも、「身寄りのないお年寄りの世話は誰がするのですか?」というワシの質問に、文化省(日本の文部科学省にあたる)のお役人までもが、「老人の世話? そんなもの近所のみんなで助け合いますから」と、答えたことに驚きと喜びを感じていましたが。

SさんやTさんも、将来に不安がないわけではないだろう。自分がいつまでこの仕事に関わっていられるのか? 家庭や子どもを持っても続けていけるのか? いや、そもそも今の仕事で家庭など持ってやっていけるのか? という想いが、ときおり去来しているにちがいないのだ。
そんな二人が、ワシのコラムを読んで、元気になると言ってくれている! ありがたい! 書いてきて良かったと、心底思う。「そうだよ。人生にドロップアウトなんてない。みんな出来事や出逢いに意味があって、すべての人は宇宙に見守られて生きているんだよ! それを知っているか、知らないかで、人は大きく変わってくる」と、これからも伝え続けようと思った。だから、二人とも、本買ってよ!とも思う。図書館で借りるのもいいけれど。ホームページのコラムは、確かにタダだけど……。
だが、太っ腹なワシは、SさんやTさんを誇りに思う。屋久島で知り合えたことも、確かに偶然ではないのだねと。そして、あのイタリアで知り合った若者たちは、今、どうしているのか? と、想う。みんな、ガンバレ!と。日本の光のヒトカケラ……。


多くの人は、大人になっていくことに、「気づかない」。いや、気づけない、と言うべきか。なんとなく、年を取ると大人になっていくと漠然と考えてきたから。けれど、真剣に生きようとする人たちには、「大人になるってどういうこと?」と、いう疑問がつきまとう。
世の中に疲れた人たちは、「大人になるって事は、あきらめる事も知っていくことだ」と言う。たしかに、そうかもしれない。でも、そうでないかもしれない。
先日、フジテレビで『ウォーターボーイズ 2005年の夏』という番組を見ていたら、主人公の東大生に、沖縄の離島の高校生がこんな質問をする場面があった。
「ねえ、大人になるってどういうことだよ?」
聞かれた東大生は、困ったように答える。
「こっちが聞きたいくらいだよ」と。
それは、ドラマを書いた、また、作っている人たちの「想い」でもあったのかもしれない。
しかし、その時、ワシの口から、言葉がほとばしるように出たのである。
「大人になるとは、自分の夢を実現させていくことだよ」と。 
その言葉は、自分自身の胸を強く打った。思わず知らず、こぼれ出た言葉。魂が、代わりに答えてくれた言葉。そんなふうに思えた。

そうか、そうだったのか! 
ワシもようやく五〇を迎える時に、それを知ったのか、と。

ああ、人間って、悲しいけれど、おもしれーなあ。