お告げ – 39

ああ、愛の一本背負い……     


ツクツクホーシ、ツクツクホーシ(つくづく奉仕?)と鳴くセミの声を聞くと、つくづく思うことがある。
人は、いろいろなものを背負っているなあ、と。
 
日頃からよく知っている人がいる。
あの人は、こうこう、こういう人だ、と。
自分では良く知っている、はずの人。

……けれど、ふとした拍子に、その人のとんでもなく辛い秘密を聞いてしまったりする。
何の苦労もないように見えた人が、家庭内暴力で苦しんでいたり、身内に重病人を抱えていたり、勤めていた会社から昨日リストラを宣告されたばかり、だったりする。
それはちょうど、海辺のキャンプファイアーで、日頃クラスでも目立たなかった男の子が、とてつもなく火を熾すのがうまかったことに皆が気づいたりする瞬間に似ている。(ちょっと違うかなあー)
それはまた、「この店だけの半額なんですゥ!」という甘い言葉に乗せられて思わず買ったワンピースを着て会社に行ったら、皆、同じ服をバーゲンで買っていた、という感覚に近い。

人は、特に、辛い経験をしてきた人たちは、自分だけが「不幸なのだ」とか、自分ほど辛い過去を背負っている者はいないのではあるまいか、と思ってしまったりする。
そして、周りで平和そうに笑っている人たちを見て、「ああ、苦労が無くていいなあ。自分もこんなふうに笑えたらなあ」とうらやんでしまう。

ところが、ドッコイダー(知っている人は知っているアニメの主人公ですが)、そんな平和で幸せそうに見えた人が、聞くも涙の悲しい過去を持っていて、今もそれを背負っていたりするのだ。
ワシも一時は、「自分こそ不幸のチャンピョンベルトだ!」と自負していた時期があった。風に吹かれて散るサクラを見ては、ヨヨと泣き崩れ、山の鐘の音がゴーンと聞こえると、「おかあさーん、お味噌なーら、ハナマルキー」と、意味も無く叫んでしまったりしたものだった。
けれど、ある時、自分の周りにいた、よく知っているはずの人が、ふともらした過去を聞いて、「ななな、なんと!」とショックを受けてしまった。
見回してみれば、その人だけではなく、他の友人もそれなりに辛い過去や現在を持っていて、それでも平気で(今思うと、決して平気じゃなかったんだなあ……)笑っていたのだ!

「こ、これではワシの立つ瀬がない。しゅ、主役はワシだああ!」
それが、最初にワシを襲った感情だった。
次に思ったのは、「そうか、みんな大変なんだなあ」と、しんみり。

誰かが言った。
ワキ役の人なんかいない! みんな人生の主役なんだ。
……主役だから、当然、その人生はドラマチックである。
皆、背負うべきものを背負って、それでも果敢(かかん)に生きている。
夫婦でも、恋人でも、親子でも、兄弟でも、その人の重荷は誰も代わって背負うことは出来ない。
 
なぜか?

それは、すべての人が、弱いように見えて、本当はとても強い存在だからだ。
その人に、背負えない重荷は来ない! からだ。

「人生は重荷を背負うて、遠き道を行くが如し」
とは、徳川家康の言葉だったっけ。
重荷なんていらない! トオリャアー! と、ヤワラちゃんのように一本背おいで投げてしまえばいいのに。
誰も本当にはそれをしない。

けれども、気がつけば、その重荷を、そっと見えない手で支えてくれる方がいる。
転ばぬように、倒れてしまわないように、半分背負って一緒に歩いてくださる方がいる。


……人生はきっと、その存在に気づくかどうかで、幸せにも不幸にも感じるんだと思う。