お告げ – 31

「人間は、食べないでも生きられる」

山田鷹夫著 『不食』(三五館)より

「人間は食べないでも生きられる、いいや、食べないのが正しい!」
そんな、とんでもない、御言葉を堂々と宣言された人がいる。
本のタイトルも『不食』ととんでもない。著者、山田鷹夫さん、新潟県の田舎に暮らす、実践思索家だという。思索を実践して、自分で証明していく、という意味か……。
本の表紙を見ると、骨太のいかつい顔の男が裸で映っている。
「なにゆえ、裸なのか?」という疑問は、本を読むとすぐに氷解する。「食べ無くても、痩せてもいない」と、文字通り身体を張って証明して見せているのだ。
しか~あし、である。その表紙がイヤで「興味はあるけど、家に置いておきたくない」と言う人たちも何人かいるようだ。
えっ、ワシ? ワシは当然、表紙にカバーをかけておりますですたい。
だって、顔を見ると、「He had gone」、すでに行ってしまっているんだもの……。
ともあれ、一読に値することだけは、マチガイナイ!(長井秀和調で)

では、お話しさせていただきます。「食べないでも、生きられる」お話。
食べないでも、平気で生きている人たちがいることは、ワシも前から知っていました。

『不食』に登場する、聖マリア・テレーザ(聖餐に食するマナという小さなパン片れだけで、何十年も生きた)は無論のこと、 拙著『光のチャネリング』(学研-一部では、ヒーリングのバイブルと絶賛してくれる人がいるのに、何故か絶版になってしまった、誰かどこからか出してくれい!)の中にも書かせてもらった本当の霊能者、長南敏恵さん(カラのビンに目の前で水が満たされ、その水はどんな難病も癒したという。彼女は何も食べず、排泄もしなかった。亡くなったときも少女のような姿だったという)も有名である。
また、古来中国から伝わる、「べーくう」(べいは、避けると言う意味。くうは谷と書いて、五穀のこと)という、「気」を食べて生きる気巧術を習得して生きている人たちも多く実在する。そして、実際に逢ったことはないけれど、ロシアの動物保護団体会長のイリナ・ノヴォジロヴァ女史やインドのサドゥー(荒野で修業する人)も何年も食べないで生きているらしい。
彼らは一様に、「何も食べない」。
中には、水さえも飲まず、排泄もしない、という驚きモモノキのびっくり人間もいる。
だけど、彼らには一つの共通項があった。それは、何らかの「信仰」や「祈り」が「食べない」ことと密接に関わっていることだ。
例えば、山本鈴美香さんという漫画家(エースをねらえ!)がいらっしゃる。彼女もある時期から、神に仕える巫女のような存在になった。本人に直接伺った話ではないから、真意のほどは確かめようもないが、その時、少量の日本酒以外は何も口に出来ない日々が続いたという(もっとも、それで、健康だったかと言うと、そうではなく大変だったとも聞くが)。
 
もともと、すべての人間は、霊の方が本体で、その霊が創り出す鋳型であるオーラに沿って、肉体を紡ぎ(形成)だしている。
だから、霊的意識が高まれば、同時に肉体の周波数も精妙な高次元のものとなり、その意識によって肉体も自在に変化していく、その要素は、じつは誰もが持っている。
けれど、普通の人が日常の中で、なかなかそのような「変容意識状態」のまま生きているのは、難しい。
ドイツの人智学者ルドルフ・シュタイナーに言わせると、かつての「聖書」やそれ以前の時代の人間の肉体は、現在の人間ほど、物質的な「固い」肉体を有してはいなかったという。まだ、多くの人が霊的であり、「言霊」のエネルギーが、肉体を物質につなぎ止めているエーテル体(オーラの一エネルギー状態)に容易に働きかけられたというのだ。
イエス様が、言葉一つで死んだラザロを生き返らせたりできたのも、当時の人々の肉体の構成自体が今とは違っていたからだという。

ならば、物質界と霊的世界のパランスが交代しようとしている水瓶座の時代に移った今(霊的に先行する時代と物質的に先行する時代は、陰陽のように交代している。現代、オーラという言葉が日常になったり、スピリチュアルな事に関心が持たれるようになったのも、太陽系自体の移行の影響。もっとも、スピリチュアルを語る人にはニセモノも多いけれど)、肉体が物質的な限界を超えて、新しい「存在」となろうとしても不思議ではないと、思う。ただ、先の証明者たちのように、その「変化」には、何らかの「信仰」等による、意識のバイブレーション変調が起こっていないと難しい、とワシは言っているのだ。例えば、長期の「断食」は、復食(断食をした期間と同じだけの日数をかけて、ゆっくりと食を戻していくこと)を含め、指導者による精神的修養のガイドがないと難しいのと同じである。
だが、『不食』の著者、山田鷹夫さんの文章からは、特に「信仰」や「修行」的な意識は感じられない。彼は、あくまでも「実験」なのだと言う(もっとも、本に書かれていないだけで、幽体離脱的な現象を体験しただろうとワシは推測しているが)。「不食」は、一部の神に選ばれた人間だけの「特権」ではない!と、言い切る凄さは、賞賛に値する。腐ったトロや牡蠣を食べる実験など、とても付いていきたくない冒険もあるが。自称、普通の人(フツーじゃ、ねえったら)の山田さんが、「食べないで生きられる」と宣言し、実行に移しつつあることが、多くの人に共感と勇気を与えるのだと思う。
ワシも共感する一人である。山田さんの言うように、不食の先に、「人類の進化」の鍵が隠されているようにも感じるからだ。それは、形から入る茶道や型から入る武道の世界に似ているようにも思う。「食べない」ことによる、心や意識の変化がもたらすもの先のモノ。それをワシは、書くことを通して追求してきたからだ。
できれば、ワシはこんな人にテレビに登場してもらいたい。そして、「食」というもっとも大きなフィールドにはまっている現代人に、朝から晩まで「食べろ、食べろ」と呼びかけているマスコミにショックを与えさせたいと思っているのだが、どうだろう。まあ、食経済で成り立っている日本のマスコミが取り上げるわきゃ、ないか!(やはり長井秀和調)

えっ、ワシ? 人に言う前に、おまえはどうなのか?と。
だって、ワシ、「食いだおれ」(この言葉、今は別の意味で聞こえないか? 喰うことで倒れる!)の大阪人だし、食べるのメッチャ好きやし……。
だが、そんなワシにも変化は知らずと起こっていたのだよ、明智君。
仕方がない。では、ワシの秘密を教えよう。
次回のお告げを待て。