お告げ – 26

悲しいとき~ 不足を数えあげるとき… 

悲しいとき~
悲しいとき~
「どうしようもなくお金がないとき~」
「お金がないのに、さらに、病気になったとき~」
「金なんか無くてもなんとかなるさと言われて、信じたけど、結局、なんともならなかったとき~」
「病いは気からと言われて、明るくふるまったけど、やっぱり、病気が治らなかったとき~」

ああ、悲しみの伝道師、いつもここから の二人組は、今日も街角で歌っているにちがいない。

世の中には、願っても祈っても、どうにも出来ないことが多々あるように見える。
「いや、実際に見えるんやのうて、あるんや!」とツッコミを入れたくなる人もいるだろう。

お金がないとき、健康ではないとき、人間は、「ない」ことに意識が向かっていく。
「もっとお金がほしい……」「ああ、元気になりたい!」と、出るのはため息ばかり。
テレビをつけると、「癒しの旅特集」とかで山奥の静かな温泉や有名旅館のおいしそうなご馳走が映っていたり、リフォームで快適になりました!と、家を自慢していたり、また、たったの1万円で健康に! という詠い文句で“高そうな”健康食品のショッピング番組が流れていたりする。
「どれもこれも欲しい、温泉にも行きたい! けど、お金がない! 貧乏人は病気になるな! と、言うのか!」と、やり場のない「怒り」が込みあがってくる。
挙げ句に、自分はとても不幸だとか、不運だとか、世の中は不公平だと愚痴ばかりこぼしてしまう。
お金が欲しい、と言っても、豪華客船で世界一周したいわけでもない。健康になりたい、と言っても、オリンピックに出場して金メダルを取れるほど元気になりたいわけでもない。
ささやかな、本当にささやかな「幸福」が欲しいだけ。テレビで見た温泉旅館に泊まってくつろいでみたり、病院通いの要らない身体になりたいだけ……。あと、叶うならば、人並みに安心して暮らせるお家=マイホームがあれば、もう十分。

それが、ずっと持てない。祈っても、願っても、一つも実現しない。それが、そんなに「身の程知らず」のことなのですか?
と、つい、天に向かって暗い感情を吐き出したくなる、
そんな人は、案外、とても多いのではないか。
 
先日も、じつは『ホームレスを救援する100の方法』(コイノニア社 960円)を読まれた、ある匿名の主婦の方から、お便りをいただいた。
その方は、ご主人の給料が安く、親子三人で生活するのに精一杯なのです、という。自分も病気がちで、いつもお金が無い不安から、つい5歳の子どもやご主人にも辛く当たってしまうのだと“後悔”されていた。
手紙には、ご自分で、こんな不安から気づいたこと、を、箇条書きにもされていた。
 1 貧しさと体調の悪さはリンクしやすく、その中で子育てしていくと子どもに悪影響があること
 2 そんな人にかぎって、頼れる身内もなかったり、夫は多忙の割に月給が少ないサラリーマンであること
 3 身体が弱いので、良い食べ物を食べたいと思いつつ、高くて買えないこと
 4 お金の無い分、あちこちで無理してよけい体調が悪く、そのため、夫婦間、子育てもうまくいかないこと
 5 お金の無い不安をどうして埋めていいかわからないこと
 6 周りに貧しい人がいなくて話せないこと
 7 そんな時に他のトラブルを招きやすいこと
 8 マイホームを持てないことに悩んでしまうこと 一生借家で良いのか?
 9 欲と向上心の違いがわからない
10 子どもに当たったり、自分をコントロールできないと、どうしたらよいのか?
11 倹約してもお金が無いとき、主婦はパートを考えるべきでしょうか?
12 毎月、貯金のできない不安をどうしたら?

皆さんはどう思われるだろう? もしも、この方にお金があれば、健康になり、子どもや夫に辛く当たることはなくなるだろうか?


人がつまずく時、その人は、人生につまずいているのではなく、じつは“自分自身”につまずいている。
しかも、その“自分”がくせ者で、たいていは、「自分の本当の姿だ」と思っていたものが、幻想だったりする。
多くの人は、自分を否定的に押し込めてきた「感情」が自分自身から発していると勘違いしている。その感情は、子どもの頃に父親や母親、または、他の影響力のある大人の心のエネルギーから「作られた」ものかもしれない。
あるいは、世の中にたくさんいる「不満の人」のエネルギーにテレビや雑誌、何気ない日常の出来事から「感応して洗脳」されたものかもしれない。
そして、そういう「感情」に支配された心は、いつも「不足」にばかり目を向ける。いわゆる、「感謝」できない心となる。
だから、今、不足しているモノが満たされても、常に、他の不足を探し出す。

それは、食べても食べても満たされない「飢餓感」に似ている。
だが、「原因」はある。
たとえ、それが親の愚痴によって作られた「感情」であっても、自分の中に、それと感応する「根」がなければ、発芽しない。
その「根」とは、「執着」である。
「こうありたい」と、願う“純粋な心”が、自分を苦したりする。
なぜか? 
「こうありたい」のに、「そうなれない自分」を“自己嫌悪”してしまうからだ。
自分を嫌うと、世の中まで嫌いになる。
そして、世の中を嫌う分、自分の“運命”をますます傷つけていく。
その結果、宇宙と「調和」できなくなり、循環の輪から外れる。

そこで、解決の方法がある。
 1 できるだけ毎朝、簡単でもいいから部屋の掃除をすること。
 2 風を通して、気の掃除もすること
 3 「なんでもありがたい」と口癖のように唱えること
 4 自分ではない“自分”に、振り回されていたことに気づくこと
 5 貧しかったり、病気がちな人こそ、「魂」の力が本当は強いのだと知ること
 6 今ある自分をそのままで「許してあげる」こと
 7 今起こっている出来事や自分の環境に、すべて「意味」があるのだと気づくこと
 8 神さまがずっと見守ってくれていたことに、もういいかげん気づくこと
 
 
最後に幸福屋から一言。
「うれしいとき~」と、誰か歌わんかいな?