お告げ – 16

さよなら三角、またきて、デジャ・ブー Ⅱ

子どものころ、コロッケをよく食べた。
 

一個、五円。中身には、肉なんかほとんど入っていなくて、すりつぶしたジャガイモだけ。
 

けれども、最高の御馳走だった、……ような気がする今日このごろ。

 

当時、下町には、こんな歌が流行っていた。
 「

♪今日もコ~ロッケ、明日もコ~ロッケ、そのまた明日も……♪」
 

毎日毎日、晩のおかずはコロッケだけ。スキヤキなんかは、一年に数えるほどだった。つまり、それだけ、コロッケは、庶民の味方だったのである。
 

親にもらった五円玉を握りしめて、肉屋さんに 走っていった幼い日々。 
 コロッケの、あの揚げた油の匂い、口の中を半分火傷をしながら、はふはふとほおばった時の口中に拡がる、なんともいえない甘み。
 

時に、ソースをたっぷりとかけ、時に、千切りキャベツとからませながら、ご飯のおかずとして楽しんだ夕げ。


 
 

その楽しく、せつなく、つましい記憶が、ときおり私を襲う。
 

だが、なかなか当時の味には巡り会えない。
 

デパートで売られている一個160円ほどの、昔から考えれば、“お大臣”のようなコロッケは、なんだか上品すぎて、しっくりこない。
 

中身もジャガイモだけでなく、野菜や上等の牛肉が入って、きっと油なんかも格段に上質なのだろうが、昔の方がおいしかったような気がするのである。
 

ああ、安モノの味が恋しい。あの香ばしいコロッケはどこへ行った……。

 

そうして、私の記憶は、町を彷徨うのだ。



 

だが、その記憶のお陰で、何度もヒドイ目にも遭ってきたことを告白せねばなるまい。
 

湘南海岸の某商店街に、某肉屋さんがある。
 

そこを通ったとき、ガラスケースに入れられたコロッケが目に飛び込んできた。
 看板には、「揚げたて、一個100円!」と、ある。
 

と、私の記憶が、突如うごめき出した。
 

口の中には、あの香ばしい油と衣の香りが突然拡がる。
 

当然、その誘惑には何人もあらがえない。

 

私は、勢いよく、100円を差し出して、コロッケを買った。
 

「一つですね」という声と共に、店員が紙に包んでくれた。
 

だが、手渡された瞬間、手の中に冷えたコロッケの感触があった。
 

『どこが揚げたてやねん……』
 

頭の片隅に、何か不吉なものが走る。
 

そして、かぶりついた時、口の中には古くなった油の、後味の悪い、しつこい感じがひろがった。
 

その瞬間、私の中にある記憶が甦った。
 

前にも、この店のコロッケを買ったことを思い出しのだ。
 

その時も、冷えたコロッケの、油臭い、後味の悪さを後悔と共に噛みしめたことを!
 

そして、さらに、デジャ・ブーのように同じ思いを何度もしてきたことを!



 ……つまり、私は、何度も、その店で冷えたコロッケを買っては、苦い思い出を悪夢のように思い出していた、のである。



 

ドイツの某哲学者は、「人は、いつもラクな方に向かいたがる」と言った。
 

それは、「痛み」を薄れさせる脳内モルヒネ、エンドルフィンの働きにも似ている。
 

私もイヤな思い出よりは、楽しかった思い出を無意識のうちに追い求めているにちがいない。
 

私の記憶の中で、神聖なコロッケの香りとおいしさの記憶が優先され、苦い記憶が封印されたまま、あの肉屋のコロッケを何度も買ってしまうのだ。
 

そうして、悲劇は繰り返される。食べる度に、禁断の封印が解かれるのだ。



 さて、あなたの記憶はどうだろう?
 
 

最後に、幸福屋から一言。
 具の少ないラーメンと肉の入っていないコロッケは、人を下座の心にさせる。