お告げ – 111

宗教って、何よ?

……人を縛るもの? 頼らせるモノ? 解放するモノ?

まいど。大阪のオッチャンです。
オッチャンな、昔、ハンドバックの事をハンドルバックって言うてましてん。まっ、そんなん、どうでもよろしけど。
……あんさん、街角で人に呼び止められたことって、ありますでしょ。
「あの、いずこへ?」
見知らぬ人から、いきなり、そんなふうに声かけられたら、どないしますぅ?
「な、何ですか? あなた?」
たいていは、ビックリしてうろたえますわなあ。 
それで、その人がやね……、
「いえ、通りすがりの聖者ですが、あなたの幸せを祈らせてくださいませ」
そう言って、手を合わせて拝まれてみなはれ、そらもう、逃げたしたくなりまっせ。こそばゆうて(くすぐったくて)……。
「けっ、結構です」
たいがいは、そう言ってそそくさと去っていきますわなあ。それでも、その人がずっと祈っている姿っちゅうのん、案外、感動しまっせ。
 
けど、これが「幸せを祈らせてください」やから、それで済むんですよ。もし、「あなたの不幸を祈らせてください」とか言われたら、そらもうケンカになりまっせ。

まあ、たいていは、「幸せを祈らせてください」って言う人の方が暗い不健康そうな顔をしてはります。「自分の幸せを祈った方がええんとちゃう?」と余計なツッコミ入れたくなるような……。

さあて、日本人にとって「祈り」って何でっしゃろな? オッチャン思うんやけど、なんだか「お蔭信仰」のような気がするんですわ。
神社の絵馬やないけれど、「宝くじが当たりますように……」、「どこどこの高校に合格させてください」、「素敵な彼が見つかりますように、そんでもって、逃げませんように……」、「誰々さんの病気が良くなりますよう……」と、お願いのオンパレード。そら、神さんも疲れまっせ。あっちもこっちも「頼んます! お願いします!」ばっかりやさかい。

せやから、競馬に当たったら、「あっこの神社はよう効くで!」て、カゼ薬みたいに言うし、「ここで祈ったら、今の彼と出逢えてん」と、合コンの神さまみたいになってしもうとる。
もちろん、そんなウマい話ばかりやおまへん。時には、その逆もあって、「この神社、最悪やん。ひとつもうまいこといかへん」、「ここアカンわ。効かへんわ。賽銭返してもらお」と、大阪のオバちゃんやったらボロクソに言いますよ。

お金が儲かったら「ありがとう」で、損したら「どないなっとんねん!」と怒鳴る。親しい誰かの病気が治ったら「ここ、すごいわあ」と感謝してお礼するけど、死んだりしてアカンかったら「ほんま! 見損のうたわ!」とけなす。

それはな、目に見えない神さまを信じてるんやのうて、御利益というか、目に見える“モノ”だけを信じてるんやろなあ。
「祈ってる」言うても、「願い」を並べてただけやん。そこにツッコミ入れとかんと……。

“宗教”に入っている人の多くは、自分の難病が治ったから、事業がうまくいったから、という「御利益」から信じたり、さまざまな不安や恐怖から“助けてくれる”「依存心」から信仰している人が多いように思うんですわ。
それってやっぱり「お蔭信仰」やん、なっ。

また、“教祖”を神の代理人や、言うて崇め奉らせて、人の「信じたい心」を利用する処も多いように思いまっせ。
なんか、医者が「偉そうにしてる方が、みんなが安心して信じたがる」論理と通じるなあ。せやから、病院の医者が言うことは「絶対!」みたいな“強迫観念”に縛られて、病気の治し方の選択肢も狭なってしもて、助かるもんも助からんようになったりしてるんやろ、それって、「宗教」やん。西洋医学教や。その信じる人のまあ、多いこと! それで助からんかったら、慌てるんでっしゃろなあ。

中には、「どう生きればいいのか?」や「正しい心のあり方」を求めて、まじめに「信仰」している人もいてますよ。いてますけどね、ほんまに一握りや。大多数は、「なんとかしてほしい!」とか、「心の平安」のために、すがりつくように信仰の形を取った「依存」にどっぷりと浸かってはる。そう思えるんは、オッチャンひねくれてるからやろか?

なんか、寂しいなあ。外国の人の信仰とか見てると、もう生活や暮らしの中に溶け込んでて、「お蔭」やとか、「願い」とかやのうて、「人間らしく生きていくための指針とか座標」みたいな感じに位置してるのがわかるから、そこにとても分厚い信仰の壁が存在してるように思うんですわ。

けど、それが、ええことか? って聞かれたら、「どうやろなあ?」と首を傾げたくなるんですわ……。
なんでや言うたら、そこでも「自分たちの信仰が一番正しい」という排他的な意識や「神のために戦う」みたいな、とんでもない逆説的行動に発展したりしてきたからやろね。
地球は、宗教の対立から、戦争になる世界やから……。
「宗教」って、和する心と恐れを解かす愛を教え導いて、共に学んでいくはずやのに、どこでどう間違えたら、争う心と恐れの究極でもある“戦争”に変化してしまうんやろなあ……。
愛とは、かけ離れた世界、なんて、矛盾やろ。
神さん、世界中で泣いてはんで、ほんまに……。


で、結論やわ。
宗教も戦争も、人が自分自身を罰し続け、縛り続けてきた結果、生まれてきたもの。
インチキな宗教は、教祖が人々を騙してきただけでなく、人々の方も、自分たちの「依存」を正当化するために、普通の人を教祖に祭り上げてきたんやないの? オッチャン、そう思うのよ。

結局、なんやかんや言うても、「自立」すんのが、怖いんやろね、まだ。
あーあ、戦争と宗教、もう、どっちも要らんなあ、オッチャンは……。熱燗にオデンでも食べてこ。
 

2008年 12月6日 もう、京都でも紅葉は終わったみたいですね。
えーっ、ボディライトニングの事を「宗教みたい」って言う人がいるらしいです。宗教を激しく敬遠している僕が、そう言われるのはとても心外だったけれど、最近、一つわかってきたことがあります。人は、自分が“信じられない世界”に出会い、目の当たりに、その奇跡的な効果を目にすると、自分で自分を納得させるスケープゴートに「「宗教的なフィルター」を求めるのではないかと。つまり、それが何かの宗教で起こっている事ならば、自分に理解できない不思議な事が起きても、安心して受け入れることができる、そんな感じなんでしょうね。
しかし、宗教って、それほど奇跡的に思えることが起きてるのでしょうか? ボディライトニングでは、それこそ、毎日のように、一般の方が知れば“奇跡的”としか思えない出来事が日常茶飯事に起きているんですけど……。それも、自分自身の“内在する力”が発動して。
「こうなったら、いっそのこと、ボディライトニングを宗教にするか!」って、それはナイナイ。
まあ、人は自分の信じたい事だけを信じ、見たくないものは見ないふりをするから、しゃーないね。フゥー(ため息)

とでい。