お告げ – 110

「掴みは、OK!」という、自己執着?
……どんな瞬間に、人は、自分自身から「自由」になれるのだろう?
「ムッシュ、バリバリ、前田美波里!」
……あの頃、ダチョウ倶楽部って、いたじゃん。この日本列島に棲息していたっつうか。(えっ? 寺島 進さん?)
まだバブリィな香りの残る日本のお茶の間に、「熱湯CM」のイキオイだけでのし上がってきたお笑いのエンタテインメントな芸人。ライバルは数えるほどしかいなかったよな。
あえて言うなら、つぶやきシロー、エスパー伊藤、江頭5.50くらいか……。
「ツカみは、オッケー」とは言ったものの、思えば、人はいろんなモノを掴んできたよな。
人間やモノだけでなく、夢や希望なんかも掴んできたっけ。どん欲に……。
人間は、他人を縛るように、誰でも、自分で“自分”を縛っちゃってんだよ。
一人SM(『銀魂』の倒錯のクノイチ、サッちゃんはいい!)なのか……?。
だけどさ、自分では、その事になかなか気づけなかったりするわけよ。
中でも、“無意識”に掴んでいるものほど、わかりにくいものはないよね。
それは、昔、映画『社長漫遊記』の中で、電車の車掌が切符拝見に来た時に、「あれー、切符どこへしまったのかなー?」とボケて、必ず帽子に挟んであった一発芸を見せた、三木のり平のようなものかもしれない。あっ? 知らないか。
例えば、身体に現れている「痛み」に苦しんでいる人がいるでしょ。
もし、その「痛み」が、肉体的な病巣から来るモノではなく、自我の“抵抗(自分自身と正しく向き合いたくない)”から来る「心理的痛み」が具現化したものだったとしたら……。
薬を頼って飲んでも、「痛み」は消えてはくれないよ。
なぜなら、その「痛み」こそ、「気づいてくれる」のを待っている魂からのメッセージだから。
何に、気づけばいいのかって?
……きっと、自分が掴んでいる“執着”だと思うよ。
「自分が何に“囚われている”のか、何に“執着している”のか? 考えても考えてもわからないのです! 教えてください!」
と言う人もいるじゃん。
その人は、「どう?」考えたんだろう?
自分と向き合うのは、簡単そうで、とても難しい。
特に何かの「問題」が起きたとき、その事の“意味”を深く追求すればするほど、見えなくなってしまうこともある。
「これは、自分に何を教えようとしているのか?」
その問いかけは“正しい”んじゃない? だけど、そんなに簡単に“わかる”、“納得できる”ものなら、そもそも問題なんか起こってないよね。
では、何を? どう考えれば良いのだろうね?
残念ながら、「答え」はないんだよ。つーかさ、誰かが、「この方法で」と言った途端に、その導きはウソになるから。
自分で一番見たくないモノ、失うのがコワいもの、誰にも知られたくないもの……。
時には、自分でしか辿り着けない“答え”があるんだよ、きっと。
「向き合う」ことの本当の難しさは、そこにあるような気がする。
何もないように思える、あるいは、ありすぎてわからないように思う、そういう混沌とした中に自分を置くことではないから。
人は、いつも“わかりやすい答え”を求めるけれど、それで“わかる”ものは、その程度のものかもな。
「気が済む」って言葉があるけど、自分が気が済むまで「思考し続ける」ことも大切かな。
「思考する」ことを止めなければ、あきらめなければ、ふとした瞬間に、「わかっちゃった!」りするんだよな。
その瞬間は、きっと無意識のうちに訪れるよ。無意識の執着は、日頃の“思考のパターン(フィールド)”の中に隠れているから。
それが、手放した瞬間なのかな。
無念無想を求めて座禅をしている人ってさ、いくら「何も考えまい」としていても、次から次へと妄想が湧いてくるじゃん。人は、「空」になんかなれないから。
でも、ふと、目の前を通り過ぎたトンボに心を奪われてさ。気がつくと、そのトンボの目で、下界を見ていたとしたら……、その時、その人は、自分の心の迷宮から脱出できているんだと思う。
無念無想とは、「何も考えない、思わない」ことではなく、ある意味、忘我、“我を忘れて”いる状態のことかもな。
「どうしたら?」とか、「何が悪かったのか?」ではなく、「自分は、何をしたかったのだろう?」、「もう、どうでもいいや」と半ば“自分を放棄”した時に、そんな瞬間が訪れるように思う。ただし、それまでは、きっと思考し続けるんだろうね。
でもさ、オレもよくわかんないけどさ、囚われている自分に苦しんでいるとき、そんなとき、人はもっとも神さまから“愛されている”んだと思うよ。
じゃあ、まあ、元気で! オレ、仕事あるから……。風邪引くなよ。
2008年 11月19日 人は、自分にしかなれない。でも、その自分がイヤだったら?
でも、イヤな自分は、どの自分なんだろうね?
怪人二十面相とは、オイラのことでい。