お告げ – 106

怪人バチアタリ

「キキーッ!」
 「出たなー怪人!」
 怪人バチアタリは、ショッカーの改造人間である。神社の鳥居に立ち小便はするわ、仏様のお供えものは盗むわ、コンビニに家庭のゴミは捨てるわ、もう、いつバチが当たってもおかしくない!のであった。
 □特徴 身長180センチ 体重70キロ。 怒ると、「天罰当てたろか!」と言うのが口癖。

……生まれた時からバチ当たり 、そんな人はいそうで、いない。 
電車に子ども料金で乗ったことはあるだろうか? お使いに行って、お釣りを誤魔化した事はないだろうか? 
喫茶店の灰皿をこっそり持ち帰ったことは……、ああ、あるね。

人間を長いことやっていると、いろんな「罪」を犯したりしてしまう。
たいていは、「みんなもやっているから」と自分で自分を誤魔化したりしている。
中には、「犯罪」にまで発展するものもあるけれど。

身体の病気と同じで、表に現れるものよりも、内部に隠れているものは、きっと多い。
たとえば、「憎悪」、「嫉妬」、「悪意」なんかがそうだ。

聖書には、「思うだけで、行動したのと同じ」とまである。

そうなると、世はまさに罪人だらけ、となる。
だから、キリスト教会では「罪人よ、罪人よ」と言うのだろう。

そして、人は、その「罪人」に石を投げつける。
他人にだけではなく、秘かに自分にも。
それは、「自己処罰」の形となって、病気や事故、さまざまな形で現れる。

世に言う「不幸」の多くは、そこから生まれた。

モラルを決めると、インモラルが生まれる。
ノーマルを定めると、アブノーマルが分かれる。
何かの「基準」は、人を縛り、同時に自分自身を縛る。

逆もまたしかり。自分自身を縛る(掴んでいる)人は、結果として、人も縛って(掴んで)しまう。

「こうでなければならない」、「こうしちゃいけない」、と、多くの人は、どんどん自分を縛り、違反した自分を無意識で責める。

……けれど、「今までに一度も罪を犯したことの無い者だけが石を投げよ」とイエス様が言われたのは、他人にだけじゃない。きっと自分にも、である。
人は自分に石を投げ続ける。そして、自分はなんて「罪深いんだ」と嘆き苦しむ。
それが、恐いのは、いつの間にか、「自己否定」や「自己憐憫」に変化していくこと。

本当は、誰も責めてなんかいないのに、自分で追い詰めていく。

天(神さま)は、罰なんか与えない。
人間が自分で自分に、バチを当ててきたのだ。
確かに、地球は人間の「争いごと」がイヤで、苦痛で、その度に身をよじらせて、結果として、地震などの自然災害に繋がることはあったけれど、それでも、人間が招いたことなのだとしたら……。人は間接的に、天の名を語って、自分を罰してきただけだとしたら……。

宗教は、人を罰する神を作る。そんな神さまはいないのに。

それだって、人間が、自分を「抑制」するために生み出した幻想。

「もっと自由に!」生きてごらん。
「もっと陽気に!」楽しんでごらん。
そうして、自分を解放して、手放してごらん。
神さまは、そう言っているよ。
 
 
最後に幸福屋から一言。
「バチかぶる」という方言があります。長崎弁だそうです。「バチが当たる」という意味ですが、昔から、人は「お天道様が見ているぞ」と人の行動を戒めてきたのですな。
えっ? ワシ? ワシなんかもう「天罰当たってます」から。


2008年 8月13日 

セミの声が、心なしか、「終わっていく夏を惜しんでる」ように聞こえてきました。ドアーズの「夏が終わってしまう……」を思い出します。