お告げ – 105

「断て! 断つんだ! ジョオォォォォォ!!!」

丹下段平

……どこかの深山幽谷。白い霧がたちこめている。
岩肌に建てられた小さな庵の中で、白髪のシジイ、いや老師が弟子に話している。焚き火のパチパチとはぜる音。
「……愛と情は、“愛情”という一括りで語られてきたから、わかりにくいのじゃよ」
「では、老師、愛と情の違いって、何ですかぁ?」
モノゴトを深く考えられない弟子が問う。
「その“なんですかぁ?”って、自分で考えないで、すぐに聞いてしまう癖、それも“執着”の変形したものなんじゃが……」
老師の言葉に、弟子はポカンとしている。
「まあ良い。情は自分を掴むモノ、あるいは、自分を掴ませるモノ。愛とは、自分も人も手放して、解放するもの、じゃよ。」
弟子、難しそうな話に、あっちを向きたくなっている。
「昔、イエス様が言うたやろ。“汝の敵を愛せよ”と。あれほど凄い愛の表現はなかったのに、その当時の人間、いや、今もかな、人には理解できなかったのじゃよ。そもそも愛が発動すれば、自分と他人を分けて恐れる“敵”という概念は成り立たなくなる。つまり、自分の敵を愛する、とはそこに敵の不在を説いたパラドックス(逆説)だったんじゃよ……」
弟子、いつの間にか、うとうとと眠っている。
「……やれやれ、自分の聞きたくないものに出逢うと、耳を閉ざす、あるいは、眠くなる。これも情かのう……」
老師は、ため息をついて、ふと虚空を仰いだ。


えーっ、老師はん、ご苦労さまどす。
地球温暖化と人間の「情」が、密接に関係している! としたら、あんさん、どないしますぅ?
「まさかあ?」と笑った人そこの人、まさかあって、あんさんマサカリ担いだ金太郎みたいに、今まで、なーんにも考えないで来たでしょう。

(ハイ、その通りです。)
 
ときおり、「今更ですが、“自我”って何でっしゃろ?」と聞いてくる人がおます。
そんなとき、そうでんなあ。きっとその人は、「自分で自分を掴む」ちゅう意味が本当には理解できなくて、しゃあけど(赤い彗星のシャアとは違うで)、なんとなーく「自分の執着が自分を苦しめている?」ことにも気づいていて、それで、なんとか自らの解決策を模索している……のと違いますかねえ。

それは、遅まきながらも「進化」している状態なんだろう、と思いますぅ。
なぜなら、自らの内に「疑問」を掲げかけることは、自分と向き合うこと。それは、自我からの脱出の道でっさかい。

例えば、従来は「自我=自意識」として、「自分が自分たり得る証」やったもんが、「人類の自我の獲得」という一つの役目を終えた今では、「自我=執着」として、自分を縛って可能性を制限する側に回ってしまっているのでは?と。
そんな事に気がつけるのは、同じフィールドにはまっている人間にはムリやと思いまっせ。

そして、信じられないながらも、あるいは、そこに答えを期待しないまでも、それでも、「自らの自我」を再検討して、そこに出来るなら修正を加えようと考える。これが、その人の「進化」でなくて、なんでんねん。

「便利なものは、同時に不便なもの」とは、多くの人が言いますわな。
例えば、携帯電話は便利やけど、いつの間にか電話番号とか覚えなくなった。トイレに落としたりして、何かで壊れたら、誰にも連絡が取れられまへん……。
同じように、自己主張をしてきた「自我」は、自分をしっかりと支えてくれるけれど、自分を手放せなくなる。

「えっ、自分を手放す! そんなの必要なの?」
と今更聞いてくるか、ご主人! ククククゥ。貴様の脳みそは、干物か!(by メイドガイ)

えーっ、人が人を所有したがる、それは、わかりまっしゃっろ。そこから、人類の不幸は始まったんどす……。
では、自分が自分を所有したがる、ってわかりまっか?
「えっ、自分はすでに自分を所有しているじゃない。だから、自分なんでしょ」とまだ思うのか、ご主人?

ならば、こう聞いてみます。
「人を所有したい、と考える事自体が、自分を掴んでいる証拠」やとしたら?

深い! 深いなあー。マリワナ海溝くらい深いなあ。

そしてね。自分を掴むものの正体が、執着という「情」なのだとしたら。

すこーし、わかりやすい角度からお話しましょ。
例えば、「幸せになりたい」と願う人がいます。
うんうん、と頷きなはれ。
「願いは叶う」、ちゅうか、想念のエネルギーは物質化するのが、「宇宙のお約束」やさかい、「幸せになりたい」と想うのなら、皆、なっているはず。
でも、「幸せ」な人が少ないのは、なんでやろ? そう思いませんか?

もし、「幸せになりたい」と願う人が、同時に、「幸せになりたくない」と願っていたら……?
あるいは、「幸せになるのが怖い」と恐れていたら……?

「恐れるものは皆来る」というのも宇宙のお約束やさかい、「幸せになるのが怖い」なら、ならないようになりますわなあ。

そんなカバな! いや、そんなバカな!? と思うでしょ。
まあ、「オレの、オレの、オレの話を聞けーい!」(by クレージーケンバンド)

じゃあ、もっと砕いて言うと、「病気を治したい」と想いながら、「この病気に治ってほしくない」、あるいは、「病気を手放したくない」、「病気が無くなった自分を想像するのが怖い」、「病気だから、みんなが大事にしてくれる。もし、元気になったら……」という表現に変えてみたら?

ふんふん、ようやく、理解できてきたみたいやね。

そーなんです。それが、「自分を掴む、自我」であり、「情」なんです。

「自我といい、情といい、すべては、愛が理解できない執着の成せる業なのじゃよ……」
おーっと、いきなり、ジジイ、いや老師の参戦か?

「……自分で自分を情けない、と思う。許せないと思う。そう“思う”ことが自我であり、情だと言うことに人間は早く気づかねばならんのう」
「ハイ、老師。おっしゃる通りでございます」
いつの間にか、弟子になっている。
 
人は己の中に、師と弟子を同時に持つ。
 

最後に幸福屋から一言。
「昨日のジョー」は、仕方がないけど、「明日のジョー」は、もう要らないよね。地球の温暖化を警告してきたアメリカの元副大統領ゴアさんが風力発電や太陽発電を推進しながら、その実、原発推進派の人間だったことをアメリカのマスコミがすっぱ抜いたとか。つまり、人類愛よりも、自分の懐を潤したい為に、結局は地球を温暖化を進めてしまう。それが情でなくて、なんであろうか、と思うでしょ。(ゴア元副大統領は、原子力(軍備&原発)利用の原材料であるイエローケーキを製造販売するアライド・ケミカル社を経営する一族の一員)


2008年 8月4日 もうすぐ旧盆です。早くヒミコ伝、出来上がらないかな……。