お告げ – 104

自分で自分を掴んでいる? わっかるかなー? わっかんねえだろうなー、

……シャバダバダー松鶴家千歳

オレが昔、サソリ座だったとき、弟はギョーザで、妹は母ちゃんに叱られて、正座をしてた。
イエイ! ワッカルカナー、わっかんねえだろうなー。
って、石器時代のギャグから始まりました、今回の幸福屋のお告げ! さあ、どうなりますことやら……。 

よくさあ、アニメなんかである設定なんだけど、冒険活劇モノって、いろんな敵が出てくるじゃん。
で、一番やっかいな相手は何か? って言うと、「もう一人の自分」だったりするんだよね、これが。

強さも弱点も、互いに知り尽くしているから、やりにくいったらありゃしない。
オマケに、たいていは、敵の方が、しぶとくて強いから、また始末に負えないよね。

と言うことは、人は誰でも、「自分の最大の敵は、自分自身」だって気づいているんだよね。

確かに、自分の醜さ、弱さをまざまざと見せつけられるのって、愉快なことじゃない。
出来れば、ずっと見たくないし、目をつむっていたい。

だけど、人生には、否応でも自分と向き合わなければならない場面が現れる。
どんなに、その人が、自分の内側にではなく、外側に「原因」を求めていても……。

そして、それは、自分にとって避けがたい状況で訪れたりするんだな、これが!
病気だったり、失恋だったり、失業だったり……、たいていは、「失う」形で現れる。

えっ? どうしてかって?

そんなもん、決まってまんがな! 神さまの意地悪に!
イヤ、そうじゃなくて……、人間は、失ってみて初めて「ありがたさ」にわかったりするでっしゃろ。
だから、そういう時でないと、自分と向き合えないんだろうね、きっと。

でも、そんな状況でも、外に、外に、原因を求めて、自分と向き合ったり、深く自分の内側に問いかけてみたりできない人たちがいるよね。

そんな人たちは、たぶん、どこかで気づいているんだよ。気づいているから、「怖い」んだろうね。
自分が「変わらなければならない」ことが。
 
それって、自分で目覚ましをかけときながら、朝になって「起きたくなーい!」ってダダをこねるのと似ているよね(タダをこねる、と言えば、ウルトラマンに出てきたダダ星人-タイトル:人間標本5.6-だけど、れっきとした宇宙人なのに、怪獣図鑑には“三面怪獣ダダ”ってなってた。きっと、それも、深くモノゴトを見つめないことから、間違ったまま伝わったのだろうね)。
 
それでも……と、思う。
自分で導いた「環境」(それが病気のように、自分にとって不都合なモノであったとしても)は、自分以外には「解除」できないから、気がつかない、あるいは、気づかないふりをしている間は、形を変えて何度でも現れる。

「もうイヤです!」って言うなら、それを招いた自分をストップさせるしかない。

で、方法は? と言うと、やっぱり、「どうして?」と自分に聞くしかないんだなあ、これが。
人から聞いても、「なるほど!」と思っても、自分が「自覚」しない限りは、“現象”は消えてはくれない。いつまでも、いつまでも……。

結局、人間は、自分で自分を掴み続けているから、いつまでも苦しいんだよね。

最初から、手放していれば、ラクなのに。
でも、それは、「生きること」を放棄した姿じゃないよ。それは、ただの逃げだし、どこにも逃げられないから……、自分からは。

「失ってみて、初めてわかる」という、本当の意味って、もしかしたら、自分が何を掴んでいたかを教える為なんじゃなかろうか?

だからなのか! 本人に解決できない「困難」は来ない、理由。

どんなに困難に見えて、自分には耐えられそうにないコトでも、その人になら解決できる、イヤ、乗り越えられるのは、そうプログラムしたのが他ならぬ自分自身だから、だったのねー。

それって、ある意味、ニュータイプ、いや、宇宙の慈悲やん……。まいったなあー。


最後に幸福屋から一言。
「自分で、自分を手放す」って、たぶん、あんさんにはわからへんねやろねー。イヤ、落ち込まんでもええよ。ワテも永いことわからんかったから。けどな、誰にでも、自動のスイッチが入るように、わからんなりに、あがいていると、案外、すうっーと抜けるもんよ。その時、肉体的な「痛み」も消えてたりするから。
まあ、精一杯、あがきなはれ!


2008年 7月21日 今日から、すべてが変わっていくよ……。