お告げ – 101

自然淘汰

……どうもですーぅ。いや、あんさん大変でっせ。
なんや、「淘汰」ちゅうもんが始まっている、て評判でんがな。
えっ、どこでやて? そんなもん、天界に決まってますがな。あとは、大阪近辺と京都の一部でっしゃろか。

もう、ワテなんて、どーしよう……と、途方に暮れとるんですわ。今のうちに、美味いタコ焼き食べとかんと……、いや、けつねうろんも捨てがたいし……。
そやかて、「淘汰」って、あれでしょ、整理整頓みたいなもんでしょ。要るモノと要らんモノを分けてしまう。

そう言えば昔、「ハルマゲ丼」という言葉が流行りましたでしょ。
世界最終戦争が始まって、この世が滅んでしまうとか。あと、「予言者ノストラダム建設反対」というのも評判でしたなあ。1999年7の月に最後の審判が来よりまっせって。
けれど、何事もなかったように、21世紀を迎え、ワテらは普通に暮らしとるやんけー。
ほんま、人騒がせなやっちゃ、と思った人、ぎょーさん居てはるのと違いますか。

他にも、「精神世界」とか、ニューエイジとか言う人達が、「時は来たれり!」とか「選ばれし者になるために……」みたいなセミナーの勧誘してはりますでしょ。人集めて……、結局、「助かりたい者、この指止まれ」みたいな宗教と同じ感覚かな、と思うんですわ。

あのね、学生の頃、電車の中で前に座っていた二人の学生が、「おい、もうすぐ日本に核ミサイル飛んでくるらしいぞ。けど、オレらは、A宗教の信徒やから、管長のバリアーで守ってもらえるからええけどな!」とヒソヒソと話しているのを聞きましたんや。こいつらアホかと思いましたけど、同時に宗教の力はおとろしなー、と思いました。笑い話みたいで、ほんまは笑えん話しやけど、

きっと、世の中は花火みたいにドン!パーッと華々しく散ったりせんのやと思います。どっちか言うたら、フランスの詩人、ジャン・アヌイはんの言わはったように、「……世界は滅ぶ、メソメソと」ちゅう感じでっしゃろなー。

気がついたら、いろんなモノが廃(すた)れていってた……みたいな。
ほれ、いつまでもあると思うな、親と道頓堀のくいだおれ、って言いまっしゃろ。

まっ、それはそれとして、ワテも「淘汰」はあると思いますよ。いや、そんな大袈裟に言うつもりはありまへんけど、まあ、毎日、淘汰は起こってますわなあ。例えば、一昔前は、スーパーで中国野菜言うたら、大人気でしたわ。安うて、美味しいって。けど、毒入りギョーザやとか、中国の環境汚染の問題がテレビや週刊誌で騒がれるようになって、誰も中国の野菜を買わんようになった。これって、一つの「淘汰」でっしゃろ。

……そう。自分達で選んだ結果ですわ。
考えてみたら、ワテら、いっつも選択して生きとるんですよ。
今日は何食べよ、今日は何処に行こう、明日はどんな服着よか……と。
道を歩いてても、たまたまいつもと違った道を歩いて、そのお蔭で交通事故から助かった、てなこともたまにありまっしゃろ。

結局、世界中の人間が、毎日、何かを「選んどる」ですな。
 
宗教に凝ってはる人は、「最後の審判」みたいなモンを言うて、神さまが「生き残れるか、否か」を決めるみたいに言いはりますけど、ワテは、神さまはそんなヒマなことようせんと思いますよ。だいたい、何を基準に選ぶんやろね。お金持ちと貧乏人やったら、お金持ちはダメで、貧乏人はOKとか。それやったら、金持ってはる人だけ、心配しはったら済むやん。

だいたい、誰かに選んでもらいたい、認めてもらいたい、必要とされたい、そんなんみんなアホみたいな事やと思うんですけど。
それは、とどのつまり、「自我の満足」を求めてることでしょ。
つまり、他人の評価で、自分自身の価値を決めてる、みたいな。
今までそれで苦しんできたのに、最後の時まで、「選ばれるかどうか?」と苦しむんかいな?

ワテは、「淘汰」とは、「自分を超えられるか、どうか」やと思うんですわ。
みんな、何かの執着や恐れを持ってます。それが、愛情やったり、金銭やったり、健康やったり……。

それで、何度も繰り返して、同じ「失敗」を続けてきたんでしょ。
「自分を変えたい」と思いながら、「変えるのが怖い」と。

それって、いったい何でやのん? そう思いません?

きっと、みんな「自分を許せない」んと違うかなあ。
自分で、自分を裁いて、罰して。あっ、そうか、それで自分で「淘汰」してしまうのか……。
アカンやん、それ。最悪やん。

大阪プロレスの誰かが言うてはりましたわ。「神さんは、バチなんか当てへんでー。裁いたり、罰したりするのは、人間だけや。むしろ、今まで、神さんは、人間が発したモノが、人間に返ってくるのを必死で止めてはったんや」と。
ワテ、それホンマや思います。神さんは、ギブ&ギブ&ギブのお人(?)やから。

では、「自分を許す」って、どういうことやろね?
きっと今まで何度も言うてきた「自己嫌悪」と関係があるんやろね。
今の自分に、「どこかで後悔してる」んと違う?。

「あのとき、ああしてたら……」とか、「……アホやったなあ」と。
けど、しゃーないやん。今の自分が在るのは、ある意味、そのお蔭でもあるんやから。エエトコだけ取って、自分を好きになる、のは、結局、自分とホンマには向き合っていないことになるし、そんなん「自分」と違うし。絵に描いたモチやし。

エエトコもイヤなとこも、ぜんぶ自分ですわ。こんなんですわ。知りませんでした? ああ、ホントにゴメンよ。
そっから……、と違うかなあ。

自分を許すって、難しく考えすぎると、一歩も前に進まれへん。
世間のジョーシキや価値観や約束や道徳や倫理観も、善悪の観念さえも、それが今の自分を苦しめるんやったら、ちょっとアッチへ置いて、自分がしてきたことに対して「しゃーないやん」と開き直ってしまう、それぐらいやらんと許せないのんと違う。

「反省」という言葉は徳のように思われてるけど、その結果、人は傷ついて、自己嫌悪になり、挙げ句に地球を苦しめてきた、もし、これが真実だとしたら……。

ハイハイ、人間社会には、ルールがあります。けど、そのルールが自分を縛って壊すとき、自分を許せなくなるとき、「自分は要らん人間や」となってしまうなら、そのことが一番、神さんは嘆きはる、そんなふうに思うのはワテだけでっしゃろか?

そのくらい、「自分を許す」というのは、しんどい、難しい選択やと思うのですわ。
……で、今も「淘汰」は続いてます。


最後に幸福屋から一言。
ポール牧がパッチンってやったら、地軸が動いたりするんやろか?
私たちのほんの小さな「選択」が、大きな地球を動かしてる。
そのことに気がつこうと、つくまいと。

 
2008年 5月9日 連休、なんにもせんと遊んでました。アハハハハ……。