お告げ- 09

ここが変だよ、コマーシャル!
先日のことだった。
近所のスーパーマーケットで買い物をしていたとき、レジ近くに設置されたテレビから、あるCMが流れてきた。
「うちは、京都は白川のほとりで長いこと小料理屋をやらせてもろてます……」
見ると、西陣織の和服姿に黒いレイバンのサングラスをかけた京都人らしいおばはんが、教室のような所に講師然として立っていた。
和服にサングラスという組み合わせも妙だが、その太ったおばはんには、「こぢゃごちゃ言わんと、うちにまかせなはれ!」という感じの異様な迫力があった。
おばはんの前には、ピンクとブルーの科学戦隊シリーズ的衣装を身にまとった三人の男女が、学習机に着席していた。戦闘服の三人は、頭にはウルトラシリーズにも出てこないクルクル回る回転ランプの付いたヘルメットを付けていた。
そして、物語はここから始まる。
「なんやったかいな」
と、突然、おばはんが次に言うべきセリフを忘れてしまうのである。
サングラスの奥でうろたえるおばはん。
するとブルーの服の隊員が目配せで後ろの黒板を暗示する。
黒板にはヘタな字で「ポップアップ」と書かれていた。
「ポップアップどすわー!」
バレーボールのレシーブのように見ている沈ませて、「そうどした、そうどした」と、喜ぶおばはん。
それは、まるで長かった便秘に決別できた時の安堵の響きに近かった。
「“洗剤イヤ子さん”は、このようになんぼでも取り出して使えるんどすわ。ほれっ、ほれっ!」
おばはんは、ティシュボックスにも似たケースから白い紙を次々に取り出しては放り投げていった。
教室に舞う白い紙……。
すると、戦闘服姿の三人の男女は、広い緑の芝生の上で突然踊り始めたのである。
「フッキ、フッキ、フッキ、フッキ、フッキ、フッキ、フッキー……フッキー」
軽快なCMソングが流れる中、腰をくねらせ、両手を振り、いつ終わるとも知れぬ、ブードーの呪いか!
しかし、そんな私の心配をよそに、三人は一人ずつ「決め」ポーズに入っていった。
ちょうどぞうきんで窓ガラスを横に拭いて、はしっこでピタッと止めたような決めポーズである。
それを輪唱のように一人ずつ順番に決めていくのだ。
「恥ずかしい!私は、思わずそう叫んでいた。
きっと、踊っていたモデルの女性は、「あたしはこんなコマーシャルに出るために、婚約者も捨てて田舎から出てきたんじゃないわよ!」と、内心で怒っていたに違いない。しかし、端のメガネをかけた青年は、「おふくろ、見てる? おれ、テレビ出たっとよ」と誇らしかったのではあるまいか。
それでも、三人はプロだった。恥ずかしいとか、イヤな顔一つ見せずに“フキフキ音頭”を踊りきったのである。ただ、惜しむらくは、京都のおばはんの方がもっとプロだったことである。そのために、三人の「もしかして、本物の社員?」という感じの拙さが目だったような気がした。
しかし、物語はそれで終わりではなかった。なんと、このCMは、「レッスン4」とかで、他にも「あれは、うちが十三の時どした」編や異様にテンションの高い外人の変な言葉によるレッスンが1から6まであったのである。
私はその場を動けなかった。最後まで見るために、スーパーのレジ前で立ちつくしていた。何度繰り返し見ただろうか。
ふと視線を感じて振り返ると、数台のレジの女性たちがじっとこちらを見ていた。
このトラウマのようなCMは、旭化成の「洗剤イヤ子さんシリーズ」だった。
ミクロの繊維が、汚れを拭き取ってキレイにするという化学ぞうきんのPRビデオである。商品説明を見ると、化学薬品は使用せず、ミクロ繊維の織り方の違いで、汚れをこすり取るのだそうだ。
「うーむ、許せる」
スーパーマーケットのビデオ画面の前に立ちすくみ、私は、思わず唸った。
近頃のコマーシャルに嘆いていたからだ。
特に「レナさんは、今日も植物で身体を洗ってごきげんです」
というコマーシャルなどを見ていて、「植物の天然エキスなんて、ウンパーセントぐらいなのに、それでも植物で洗っているという表現が許されるのか!」という憤りがあったからである。果汁1パーセントでも、平気で果汁の恵みというのと同じではないか。
誇大広告は許せない! 事実を知れば、誰もがそう思うだろう。だが、テレビの表現は巧みで、みんな簡単にだまされてしまう。
「白砂糖が大脳に良い」とか、「肉は食べすぎてもいけないが、食べないのはもっといけない」とか、コマーシャルで誰かが言うたびに、おいおい、本当の事を言えよ! とテレビにつっこみたくなるが、そのテレビ自体が、企業の広告費で成り立っているからかないまへん。
最近の私は、コマーシャルを見ながら、道義的に「OK-許せるか」「NO-許せないか」で見るようになった。
だが、「許せる」コマーシャルは、驚くほど少ない。
中条きよしがびっくりして叫んだ「麺くらった!」というウドンのCMが懐かしい。
ある洗剤がミクロになって繊維の奥まで入り込むから、さらに洗う力がパワーアップと宣伝すれば、合成洗剤の化学物質が、繊維の奥に留まって、やがて肌の中に侵入してくるのではないかと、常識的に考えればわかることでも、コマーシャルという魔法にかかってしまうと、「利点」や「長所」のみを強調するために気づけなくなる。
それは、「便利さ」ばかりを追求してきて、悪いところを誤魔化してきた二十世紀の文明と重なって見える。
誰も人を騙そうと悪意で思うのではないと信じたい。けれども、コマーシャルは企業の「良心」を基本にして作っていってほしい。タバコの吸いすぎに注意しましょうとあるように、危険なものが少しでもあるのなら、それに対する「呼びかけ」もしていってもいいのではないかと思う。
核廃棄物の問題や自然破壊は、私たち人類に共通の責任である。
製品の安全、もっとみんなで理解し、どうしたら良くなるかを消費者と企業が一緒になって考えていく時代になってもいいと思うのだ。
ただし、怒りは禁物である。怒りは自分の血液を汚してしまう。許せるとか、許せないからと、大人げないことでは幸福屋が勤まるはずもない……が。
ところで、あなたの「許せる」コマーシャルって、なあに?